日本の軍事政策の基本理念に関して

 憲法9条自衛隊、日本の軍事政策(防衛政策、安全保障政策)に関する問題をめぐっては、改憲=9条改正か、護憲=9条維持かといった二項対立で議論がなされているケースがほとんどだろう。

 改憲派は「はじめに改憲ありき」、護憲派は「はじめに護憲ありき」で、お互いが自分たちの主張をぶつけあうだけであって、多くの国民にとって一番よい軍事政策のあり方を議論によって形成しようという意識があまりみられない。

 憲法9条改正が現実的な政治課題として浮上してくれば、国政選挙、国民投票によって国民一人一人がこの問題に対して意思を表明することを迫られることになる。

にもかかわらず、この問題を考えるための思考枠組は、戦争容認=9条改正か、戦争反対=9条改正反対かといった単純なものしか国民に提示されていないようにみえる。

 改憲派は、主張する憲法改正案がどのような理念に基づいているのかを明示すべきだし、護憲派アメリカとの関係をどうするのかを含め、現実的で説得力のある軍事政策案を提示できなければ、徐々にその支持を失っていくだろう。

 憲法9条を改正するかしないかを議論する前に、日本の軍事政策の基本理念、基本方針はどうあるべきかについて、国民の合意案を形成する努力が必要ではないだろうか。

 

 日本の軍事政策の基本理念に関しては、大きくは3つ、細かくみると4つの立場、考え方がある。

  1つ目は、国益になると判断すれば他国を武力攻撃、先制攻撃することも可能とすべき、とする考え方(これを「武力攻撃容認主義」と名付けておく)。

戦前の日本はこの立場をとっていたし、日本以外の多くの国が今もとっている立場でもある。

 

 2つ目は、日本が他国を不当に武力攻撃することは禁止するが、海外でおきた紛争には介入できるようにすべき、とする考え方(こちらは「海外紛争介入主義」と名付けておく)。

 なお、この立場には「他国への不当な武力攻撃の禁止」を憲法に明記すべきという考え方と、憲法にそのような禁止条項は盛り込まず、あくまでも政府の判断で不当な武力攻撃を行わないようにすればいい、という考え方がある。

(ここで「武力攻撃の禁止」ではなく、「不当な武力攻撃の禁止」と、あえて不当なという言葉を付け加えたのは、日本に対してミサイル攻撃がなされるような際に、これを阻止するために先制攻撃することは、理念的には不当な武力攻撃には該当しないと判断できるからである。もちろん、武力攻撃、先制攻撃を正当なものと不当なものに分ける考え方は、正当な武力攻撃の範囲を拡大解釈することによって、あらゆる武力攻撃が正当化されるという危険性があるけれども。)

 

 なお、海外の紛争に介入する場合、武力行使を伴って介入するのが通常の形ではある。ただし日本の場合、憲法9条の問題、国民の多くが自衛隊武力行使にアレルギー、嫌悪感をもっているという事情があるため、武力行使を伴わない形で海外の紛争に介入するという3つ目の考え方が生じてきた(この立場は「非武力行使型海外紛争介入主義」と名付けておく)。

湾岸戦争以降、現在の日本政府がとっている立場は、この3つ目のものといえる。

 現在、自衛隊の海外派遣に対する世論は賛成派と反対派がほぼ半分ずつにわかれている(派遣するケースによってどちらかが大きく上回ることはあるが)。

だが、賛成している人の中には、武力行使を伴わない形だから賛成しているという人も相当数いるだろう。

海外の紛争に武力行使を伴う形で介入するという、2つ目の立場を支持している人が現時点でどの位いるのかは不明である。

 

 また、海外の紛争に介入する場合、一定の条件を満たした場合のみ介入すべきとする立場と、条件を付けず政府の判断次第で介入してよいとする立場がある。

対米関係重視で、アメリカからの要求にはすべて応じられる態勢を整えておくべきと考えている人たちは、後者の立場をとるだろう。

一方前者の場合は、国連で容認されたものに限って介入すべきという考え方、日本独自の基準を設けるべきなどの考え方がある。

 

 最後に4つ目の考え方であるが、これは専守防衛、一国平和主義的な立場にたって海外の紛争には介入しないというもの(「専守防衛主義」「一国平和主義」といった呼称をそのまま使うこととする)。

1980年代まで日本の政府がとっていた立場でもある。

 なお、少数派の意見ではあるが、「絶対平和主義」的な考えのもと、自衛隊を廃棄し自衛権行使の権利すら放棄すべきと主張する人たちもいる。

ここでは思想のレベルではなく、実現性のある政策のレベルでこの問題を考えているので、「絶対平和主義」的な立場は4つ目の「一国平和主義」の1バリエーションとみなすこととする。

 

○原理原則主義と曖昧柔軟路線

 日本の軍事政策をめぐる最大の問題点は、アメリカの軍事的要求に応えるために済し崩しに自衛隊の行動範囲を広げてきた点にあるだろう。

1990年代になって、軍事政策の基本方針がそれまでの「一国平和主義」から「非武力行使型海外紛争介入主義」へと大きく変更された。

だが、こうした変更も、憲法の問題をうやむやにしたまま、国民の合意を形成する努力もしないままなされたといえる。

 

 「原理原則主義」的な立場にたつならば、国家または政府としての軍事政策の基本方針を明確にし、それを憲法に表記しておく。

そして基本方針を変更したい時は憲法改正手続きを行い、改正案が成立した場合のみ新しい方針へと変更すべきだろう。

 特に、1980年代まで国民の多くが「一国平和主義」の立場を支持していた点を考慮するならば、憲法自衛権を行使する軍隊を保有すること、海外の紛争には介入しないことを明記しておくべきだったという考え方もありうるだろう。

そして湾岸戦争時(以後)の自衛隊の海外派兵に関しては、「海外紛争介入主義」に基づいた憲法改正案が成立したならば合法的に派兵し、否決された時は「一国平和主義」的な立場を維持する、というやり方もあっただろう。

 

 だが、日本の憲法が改正しにくいものであること、「武力攻撃容認主義」から「絶対平和主義」まで幅広い考えがあるため国民の合意案形成が困難であること、改憲派の多くは「武力攻撃容認主義」「海外紛争介入主義」であり、専守防衛主義に基づいた憲法改正案が成立する可能性はなかったこと、政府にとっては憲法や民意よりもアメリカとの関係の方が大事だったこと、以上の点から「原理原則主義」の立場をとることは、現実的には不可能だっただろう。

 政府の立場にたつならば、基本方針を曖昧にしたまま、問題がおきた時(具体的にはアメリカから軍事的要求をつきつけられた時)、あらゆる知恵を駆使して問題の解決にあたる「曖昧柔軟路線」をとらざるをえなかったといえる。

 だが、9・11同時多発テロ後、アメリカの要求のハードルがあがったことによって、「曖昧柔軟路線」で問題に対応するやり方は限界に達してきたといえるだろう。

 自衛隊の海外での武力行使を禁止する現在の状態を維持するのか、それとも武力行使を解禁するのか。

改憲派は、9条を改正して自衛隊の海外での武力行使を合法化したいと考えているのだろうが、憲法改正ができない時はどうするつもりなのだろうか。

今まで通り解釈改憲という形で海外での武力行使を正当化しようとするのだろうか。

また、解釈改憲で海外での武力行使が正当化できない時はどうするつもりなのだろうか。

一方、自衛隊の海外での武力行使を禁止する方針を貫く場合は、アメリカとの関係をどうするのかが重要な問題となるだろう。

 

○国民の合意案の形成方法

 日本の軍事政策の基本方針について国民の合意案を形成するにはどういった方法があるだろうか。

1つは、この問題に関した国民投票を行うという方法があるだろう。

もう1つはこの問題を争点にした国政選挙を行い、国会で基本方針を決定するという方法があるだろう。

 

 また、基本方針と憲法との関係をどうするかといった問題もある。

1つの方法は、憲法をいったん脇においた上で基本方針についての合意案を形成する。

その基本方針が現行憲法下では行えないものであるならば、憲法改正の手続きを行う。

そして、憲法が改正されなかった時は、あらためて現行憲法下で可能な基本方針の合意案を形成し直す。

 もう1つの方法は、基本方針の合意案形成と憲法改正の手続きを同時に行うというもの。

現行憲法下では不可能な基本方針案を主張する人は、その基本方針に基づいた憲法改正案を国民に提示する。そして憲法が改正されたなら、その基本方針を政府の方針とする。

改正されなかった時は、現行憲法下で可能なものを政府の基本方針とする。

 

 ここで問題となるのは、国民の多数が「非武力行使型海外紛争介入主義」か「一国平和主義」を選択した時の政府の対応だろう。

民意を尊重して国民が選んだ方針を遵守するのか。

それとも強引な憲法解釈で自衛隊の海外での武力行使を既成事実化しようとするのか。

 もし後者の立場をとるのならば、軍事政策の基本方針について国民の合意案を形成すべきとする、ここでの主張自体何の意味もないものになるだろう。

それだけではなく、そもそも日本は立憲国家なのか、何のために憲法があるのかといった疑問が生じてくるだろう。

 

○個人的見解

 最後に、この問題に関しての私自身の(現時点での)考えを表明しておく。

将来、戦争そのものを違法行為とする、憲法9条の理念に基づいた国際法の制定に尽力する。

そして軍隊を、国際法を機能させるための警察組織のようなものに改変する。

このような方針をとるのであれば、「海外紛争介入主義」を1番目の選択とする。

そして2番目に「一国平和主義」を、3番目に「非武力行使型海外紛争介入主義」を選択する。

 

 1番目に「海外紛争介入主義」を選択しておきながら、なぜ2番目に「非武力行使型海外紛争介入主義」ではなく「一国平和主義」を選択するのかと疑問をもつ人もいるかもしれない。

それは、武力行使を禁じた状態で自衛隊を戦地に派兵するという行為は、自衛隊員の命を軽視した行為に他ならないからである。

戦前の戦争指導者たちは、国民の命、軍人の命をないがしろにしていたが、現在もその状況はかわっていないといえる。

政治指導者が自衛隊員の命を軽んじれば、自衛隊員も人の命を軽んじるようになるだろうから、不当な武力行使を抑制しようという意識も薄れてしまうだろう。

(ただし、浅羽通明の著作『天皇反戦・日本』(幻冬舎)によれば、自衛隊イラクに派遣された際、日本の政府、行政機関は自衛隊員に死者がでないよう用意周到な方策をとっていたそうである。「曖昧柔軟路線」がよい形で発揮されたと肯定的に評価すべきなのだろうか。)

 

 なお、日本の政府および国民が、「武力攻撃容認主義」の立場を再び選択するのであれば、私は日本の将来に対しては何も期待しない。

資源小国、エネルギー小国の日本が、軍事力によって国際社会での生き残りをはかろうとしても成功はしないだろう。

再び戦争をして第二の敗戦を迎えたとしても自業自得というものであろう。