護憲派と保守派の再定義

 岩波書店の『世界』2007年5月号に、佐藤優が「山川均の平和憲法擁護戦略」という論文を寄稿している。

その中で佐藤氏は、自分自身を「現行憲法の条項には一切、改変を加えてはならないと考えるかなり硬直した護憲の立場に立つ。」と称している。

一方、同じ論文の中で佐藤氏は自分自身を保守派とも称している。

 一般的には、「護憲派=左派(非保守派)」、「保守派=改憲派」というイメージがあるので、佐藤氏のこの主張は世間一般の護憲・保守のイメージを覆すことになる。

と同時に「護憲」「保守」の定義について重要なヒントを与えてくれた。

 佐藤氏は、一般的な「護憲派=憲法9条改正反対派」は、本音では天皇制廃止の共和制論者だろうと推察し、天皇制廃止論者(=憲法第1章改正派)が護憲派を主張することに異議を唱えている。

(同様の意見は何年も前に、テレビ番組(多分「たけしのTVタックル」だったはず)で、浜田幸一共産党の政治家に対して言っていた。)

 「護憲派」とは何か、「保守派」とは何かという定義は、憲法のどの条項を護る(まもる)のか、社会の何を保守するのかによって、その内実がかわってくるだろう。

 

○戦後憲法の3つの理念

 戦後憲法は次の3つの柱(理念)から成り立っている。

1・象徴天皇制

2・リベラルデモクラシーの理念。

3・憲法9条の平和主義。

 

 この3つの理念をすべて擁護・保守しようとする佐藤優が、自身を「護憲派」「保守派」と称するのは極めて理にかなっている。

一方、天皇制を廃止しようと考える人が自らを「護憲派」と名乗るのは、佐藤氏や浜田氏が批判するように矛盾しているだろう。

また、憲法改正論者は「右派」ではあるかもしれないが、憲法に関しては「保守派」ではなく「革新派・改革派」であろう(「復古派」ともいうが)。

 

 戦後憲法の3つの理念にどういったスタンスをとるかによって、6つのタイプに分類できる。

A・社会主義

 天皇制廃止。リベラルデモクラシー否定=社会主義支持。憲法9条擁護。

B・共和主義派

 天皇制廃止。リベラルデモクラシー支持。憲法9条擁護。

C・戦後民主主義

 象徴天皇制支持。リベラルデモクラシー支持。憲法9条擁護。

D・リベラル改憲派

 象徴天皇制支持。リベラルデモクラシー支持。憲法9条改正。

E・戦前回帰派

 天皇制支持。リベラルデモクラシー否定=明治憲法体制回帰。憲法9条改正。

 

*Eの戦前回帰派は、現在の象徴天皇制に近い形を支持する人から、明治憲法天皇主権復活を主張する人まで、天皇制のあり方について意見が分かれる可能性がある。

 また、リベラルデモクラシーを否定してどのような政治体制を構築するのかについては、明確な考えをもっている人は少ないだろう。

戦後憲法戦後民主主義を批判すること自体が目的となってしまい、自主憲法制定・憲法改正を主張しても、提示する憲法案は現行憲法の字面を修正する程度で根本的な変革案を提示できていない。

 リベラルデモクラシーを根本的に否定している人は、明治憲法をそのまま復活させようと考えている人ぐらいだろう。

天皇制と政治制度を、明治憲法と戦後憲法の折衷的(中間的)なものにしようと主張する人を、明治憲法復活派と区別しておく。

 

E・戦前回帰穏健派

 天皇制と政治制度を、明治憲法と戦後憲法の折衷的(中間的)なものにする。憲法9条改正。

F・明治憲法復活派

 天皇主権制。明治憲法体制回帰。憲法9条改正。

 

Aの社会主義派、Bの共和主義派の中にも憲法9条改正派はいるはずだが、少数派なのでここでは除外しておいた。

 

 上記の6タイプの中で、厳密に護憲派と呼べるのはCの戦後民主主義派だけだろう。

ただ、ある時点から憲法9条擁護派=「護憲派」、9条改正派=「改憲派」という呼称がマスメディアで使われるようになり、現在もそうした状況が続いている。

 

○革新と保守の境界線

 革新という言葉は現在では死語に近いが、かつては左翼とほぼ同義語とみなされ、思想・言論空間では大きな役割を担っていた。

戦後の「保守派」は、革新=左翼に批判的な人たちの総称だったといえる。

 ただし、革新と保守の区分も、何を革新しようとするのか、何を保守しようとするのかによってその境界線がちがってくる。

佐藤優のように、天皇制廃止論者=革新(左翼)と認識した場合、象徴天皇制を支持するCの戦後民主主義派は保守となる(保守=天皇制を保守)。

憲法9条を支持する人を革新と定義した場合は、戦後民主主義派は革新側になる(革新=軍隊と交戦権を放棄。保守=国家が軍隊と交戦権をもつことを保守)。

民主主義体制を支持する人を革新とした場合は、Dのリベラル改憲派も革新側となる(革新=戦前の体制を革新。保守=戦前の体制を保守)。

 

[革新・保守の分類]

1 天皇制擁護者=保守とする発想。佐藤優の立場

   革新=Aの社会主義派とBの共和主義派

   保守=Cの戦後民主主義派からFの明治復古派まで

2 憲法9条改正派=保守とする発想。

   革新=Aの社会主義派からCの戦後民主主義派まで

   保守=Dのリベラル改憲派からFの明治復古派まで

3 戦前回帰派=保守とする発想。

   革新=Aの社会主義派からDのリベラル改憲派まで

   保守=Eの戦前回帰穏健派とFの明治復古派

 

○リベラルと保守の境界線

 民主主義体制を支持する人をリベラル派、これを批判する人を保守派とすると、戦後民主主義派・リベラル改憲派はともにリベラル派となり、戦後民主主義体制を擁護する佐藤氏が保守派を名乗るのは矛盾する。

 また、社会主義派をリベラルと呼ぶことの妥当性も問われる。思想的には、社会主義者はリベラルデモクラシーやリベラリズムに批判的だから、リベラルと呼ぶことは適切ではない。

だが、リベラルという言葉を「非・保守」「左派」と同義語とすれば、リベラルと呼ぶことも可能となる。

 

 [リベラルと保守の境界線]

1・リベラル=非保守=左派とした場合

   リベラル=Aの社会主義派からDのリベラル改憲派まで

   保  守=Eの戦前回帰穏健派とFの明治復古派

2・社会主義派=非リベラルとした場合

   リベラル=Bの共和主義派からDのリベラル改憲派まで

   保  守=Eの戦前回帰穏健派とFの明治復古派

 

○左翼・中道・右翼の区分

 左翼・右翼という言葉を、左派・右派と同義語とみなすか、左翼と右翼の間に中道という概念をおくかによって、左翼・右翼の分岐点はことなってくる。

ここでは、後者の立場(左翼・中道・右翼の3分類)に立って、左翼・右翼の分岐点、中道の範囲を考えてみたい。

 

中道案a.リベラルデモクラシー擁護派を中道とみなした場合

中道案b.象徴天皇制支持、リベラルデモクラシー擁護派を中道とみなした場合

 

 [左翼・中道・右翼の境界線]

1・中道案a 

   左翼=Aの社会主義

   中道=Bの共和主義派からDのリベラル改憲派まで

   右翼=Eの戦前回帰穏健派とFの明治復古派

2・中道案b

   左翼=Aの社会主義派とBの共和主義派

   中道=Cの戦後民主主義派とDのリベラル改憲派

   右翼=Eの戦前回帰穏健派とFの明治復古派

 

○左派・右派の分岐点

 左派と右派の分断線を憲法9条への態度におけば、Dのリベラル改憲派は右派に分類される。

しかし、分断線をリベラルデモクラシーへの態度におけば、Dのリベラル改憲派は左派に分類される。

 

 [左派・右派の境界線]

1・憲法9条改正反対派=左派。改正派=右派

   左派=Aの社会主義派からCの戦後民主主義派まで

   右派=Dのリベラル改憲派からFの明治復古派まで

2・リベラルデモクラシー擁護派=左派。批判派=右派

   左派=Aの社会主義派からDのリベラル改憲派まで

   右派=Eの戦前回帰穏健派とFの明治復古派

 

○左派と右派・リベラルと保守

 現在では、左派=リベラル派、右派=保守派とみなされることが多い。

この場合、左派と右派の分断線をどこにおくかによって、Dのリベラル改憲派は、保守派にも分類できるしリベラル派にも分類できる。

 分断線を憲法9条においた場合:Dのリベラル改憲派=保守派(右派)

 分断線をリベラルデモクラシーへの態度においた場合:Dのリベラル改憲派=リベラル派(左派)

 

Cの戦後民主主義派は、世間的には左翼・左派・リベラル派とみなされているし、自身をそう認識している人が多い。

佐藤優のように、自身を(Cの意味での)戦後民主主義派と認識しながら「保守派」を名乗る人は稀なケースといえる。

ただし、自身を左派と認識している戦後民主主義派は、知識人と呼ばれている人たちに多いだろう。

国民の多数派は、(Cの意味での)戦後民主主義派であろうが、同時に保守的とみなされているから、佐藤氏が自身を保守と認識するのは、知識人の中では珍しいケースだが、一般国民の中ではおかしなことではないのかもしれない。

 また、中島岳志も自らを保守と称しているが、中島氏の場合、社会思想上の「穏健的改良主義者(漸進主義者)=保守主義者」という定義に従って保守を名乗っているので(西部邁も自著で自らをそう称していた)、世間一般での保守派(右派)とは意味合いがかなりことなっている。

 戦後の保守が、元々左翼(革新派)に対する対抗概念であったために、保守の定義が人によってまちまちなため、極右派からリベラル派まで、幅広い層の人が保守を自称するという、言葉のアナーキー状態が生じている。

 

 以上の点を踏まえて、左翼・リベラル派・左派 / 右翼・保守派・右派を分類する1つの目安を提示してみます。

 

A・社会主義

   左派・左翼

B・共和主義派

   左派・リベラル派

   左翼(天皇制廃止論者を左翼とした場合)

   中道・中道左派(リベラルデモクラシー擁護派を中道とみなした場合)

C・戦後民主主義

   リベラル派・中道・中道左派

   左派(憲法9条擁護派、リベラルデモクラシー擁護派を左派とみなした場合)

   保守派(天皇制擁護者を保守派とみなした場合)

D・リベラル改憲派

   リベラル派・リベラル右派・中道派・中道右派

  *リベラルデモクラシー擁護派を左派とした場合は左派

  *憲法9条改正派を右派・保守派とした場合は右派・保守派

   右と左を何を基準にして分けるかで、右派(保守派)にも左派にもなる

E・戦前回帰穏健派とF・明治憲法復活派

   右派・保守派・右翼

倒幕派と佐幕派の戦いで徳川幕府が勝利したならば、日本が世界で最初の社会主義国家になったのではないかというお話

○19世紀中盤の日本の針路

19世紀の中頃、日本には4つの選択肢があった。

1つ目は、徳川体制の下での反近代化路線。

2つ目は、徳川体制の下での近代化路線。

3つ目は、反徳川勢力の下での近代化路線。

4つ目は、反徳川勢力の下での反近代化路線。

 

 もちろん、現実の歴史は3つ目の反徳川勢力の下での近代化路線がとられたわけだが……。

 4つ目の反徳川勢力の下での反近代化路線は、実現する可能性は限りなく低かっただろう。

倒幕派徳川幕府から権力を奪取した理由は、徳川幕府にかわって薩摩藩長州藩が天下を取りたかったわけではなく、徳川体制の下では欧米列強の脅威に対抗することができないと判断したからであり、欧米列強に伍す国家をつくるには西洋文明をとりいれ近代化をすすめることが必須だったのだから、徳川幕府を倒して権力を手にした勢力が反近代化路線をとるという選択肢はありえなかっただろう。

 

 1つ目、2つ目の針路は、佐幕派倒幕派の戦いで徳川幕府が勝利しなければありえなかったわけだが、この戦いで倒幕派が勝利したのは歴史の必然であったのか、それともさまざまな出来事(の偶然)が積み重なってたまたま倒幕派が勝利しただけなのかは、歴史哲学的な考察対象であり、それ自体興味深いテーマではあるが、現在の私にはそのような考察を行えるだけの能力がないので、その件については(現時点では)これ以上深入りしない。

 ただ、徳川幕府の中にも近代化を進めるべきだと考えていた人たちは(少数派であったかもしれないが)いただろうから、佐幕派倒幕派に勝利していたら、2つ目の徳川体制の下での近代化路線がとられていた可能性はあった。(明治政府ほどの根本的な近代化政策はとれなかったとは思うが。)

 

 明治国家を嫌っている人の中には、徳川幕府でも明治政府でもない第三勢力の下での近代化路線を望んだ人もいるかもしれないが、19世紀中盤の時点では、薩長を中心にした倒幕派の他に徳川幕府を倒せる可能性のあった勢力はなかったから、「第三勢力の下での近代化路線」が実現した可能性はゼロに近かっただろう。

 だが、現実の日本近現代史とは異なる歴史を夢想した場合、佐幕派倒幕派に勝利したケースを想定するとさまざまな可能性が浮かんでくる。

 

佐幕派倒幕派に勝利した場合のその後の歴史

 最初に考えなければいけないのは、佐幕派倒幕派に勝利した場合、その後の日本は独立を保つことが出来たのかということだろう。

明治政府の「富国強兵」「殖産興業」路線の下で欧米列強に比肩しうる大国になったから日本は独立を保てたのであって、19世紀中盤以降も徳川体制が続いていたら、日本は欧米列強の植民地になっていただろうと考える人はかなり多いかもしれない。

 だから、これから述べるさまざまな可能性というのは、あくまでも徳川体制の下でも日本が独立を保つことが出来ていたのなら、という前提の下にすぎない。(徳川体制下で西洋文明をとりいれ、富国強兵化した場合。徳川幕府が巧みな外交術を駆使して独立を保った場合、など。)

 

1 倒幕派の再挙兵

 佐幕派に敗れた倒幕派や、その意志(倒幕派が皆、処刑された場合はその遺志)を受け継いだ勢力が再度倒幕運動を起こして、それに成功した場合。

この場合は、実際の歴史より何十年か遅れて、現実におきた出来事と似たような歴史を歩んだかもしれない。

 ただ、近代化の開始が数十年遅れたことが、大きなハンディキャップとなった可能性はある。また、1860年代末に明治国家が誕生しなかったことによって東アジア、そして世界の国際関係に大きな変化(実際の歴史との相違点)がもたらされた可能性があるだろう。

 

2 自由主義勢力による革命

 日本は、1860、70年代に近代的な国民国家づくりをはじめたので、当時のドイツやイタリアと似たような歴史を歩むことになった。

だが、もし徳川体制が1880年代まで続いていたら、その間に西洋諸国から自由主義思想や民主主義思想が流入していただろうから、それらに影響を受けた勢力が主要な倒幕勢力となっていたかもしれない。

19世紀半ばに産業化が進展していたら、西欧におけるブルジョアのような階級が誕生し、唯物史観的な市民革命(ブルジョア革命)がおこっていたかもしれない。

 その場合、天皇・皇室はどのような扱いになっただろうか。

倒幕派に勝利した徳川幕府が、皇室・天皇にどのように対処したかによってかわってくるだろうが、あらたに誕生した倒幕派あるいは革命派は、立憲君主制をめざす勢力と共和制をめざす勢力に分かれただろう。

 

  *補注

 皇室を王室とみなした場合は、天皇を君主とみなして立憲君主制をめざす皇室支持派と、皇室を廃止しようとする共和派が誕生しただろう。

だが、徳川将軍・徳川幕府を国王・王室とみなし、天皇・皇室を西ヨーロッパにおけるローマ教皇・ローマ教会のような存在とみなして、宗教的権威(天皇)の下に権力を集中させた祭政一致の神権国家化をめざす勢力(実際の明治政府はそれに近かったと思うが)、徳川幕府を倒して政治体制は共和制とするが、皇室は宗教団体として存続させる政教分離路線をめざす勢力が誕生していた可能性もある。

 

3 マルクス主義者たちによる革命

 徳川幕府が二十世紀まで存続した場合、その時はマルクス主義アナーキズムの思想が流入してきていて、それに影響を受けた勢力があらたな倒幕勢力となっていただろう。

ロシア革命よりも先に、マルクス主義者たちが徳川幕府を倒して社会主義国家を建設していたら、日本が世界で最初の社会主義国家になっていただろう。

戦後の日本は世界で最も成功した社会主義国家と言われたりもしたから、もしかしたらソ連中華人民共和国よりも成功した社会主義国家になっていたりして……。

建国記念日が3つあってもいいじゃないか

 建国の日、あるいは建国記念の日を制定するとしたら、それはどのような日にすべきかについては、3つの立場が考えられる。

1つ目は、天皇(朝廷)によって最初の統一国家が建設された日を建国(記念)の日とすべきという考え方。紀元節を復活させようとする人たち、戦前の紀元節であった2月11日を建国記念の日とした現在の制度を支持する人たちがこの立場だろう。

 

 2つ目は、徳川幕府を倒して近代的な国民国家である明治国家が建設された日を建国(記念)の日としようとする考え方。

といっても、実際にそのような主張をする人をみたことはない。(私が不勉強のため知らないだけかもしれないが。)

それは、明治国家の建設が、大政奉還、王政復古という古代の理想の社会に復古するという政治的には古めかしいアナクロニスティックな形でなされたことを反映しているのだろう。

 

  *補注

 西ヨーロッパ的な価値観なら、近代的な国民国家が誕生した明治国家が建設された日を建国(記念)の日としただろう。徳川幕府を倒した政治勢力が、西洋の自由主義思想や民主主主義思想に影響を受けた人たちであったならそうなっていたかもしれない。

 だが、実際に倒幕運動が行われていた19世紀中盤の時点では、自由主義や民主主義の思想が日本社会に流通するということはなく、尊王思想に影響を受けた人たちが、倒幕運動、そしてその後の明治維新を行ったため、日本の近代化は、経済や社会の面では西洋文明をとりいれ欧米化した近代社会となったが、政治の面では神話の世界で国家が建設された日を建国の日とするという点に象徴されるように、非近代的な要素を残したものとなってしまった。

 

  そして3つ目の立場だが、それは国民主権の戦後の民主主義国家が建設された日を建国(記念)の日としようというものである。

 

 もし、建国の日あるいは建国記念日を1日だけ制定するのなら、私は国民主権の戦後の民主主義国家が建設された日をそうすべきだと考える。

(もっとも、建国の日、建国記念の日などは不要だと考える人もいるだろう。私自身はそうした考えに異をとなえているわけではない。ここで述べているのは、あくまでも、建国(記念)の日を制定するのなら、という前提条件の下での意見にすぎない。)

 

 ただ、現実の政治をみた場合、これから10年、20年の間に国民主権の戦後の民主主義国家が建設された日が建国(記念)の日となる可能性は限りなく低い。

一方、これから10年、20年の間に日本の社会が戦前回帰し、紀元節が復活し、戦前のような歴史教育愛国心教育が行われる可能性は低いとは言えない。

というわけで、そのような状況になるのを防ぐための一つの提案をしてみたい。それは、建国の日、あるいは建国記念の日を3つ制定しようというものである。

 

 大和朝廷によって建設された最初の統一国家が、現在の国家の原型となったとみなし、最初の統一国家が建国された日を、1つ目の建国(記念)の日とする。ただし、大和朝廷による統一国家がいつ制定されたのかはわからないし、これから先、それが判明する可能性もほとんどないだろう。

 だから、ここは右派・保守派に妥協し、神話の世界において神武天皇が即位したとされる日を、便宜的に1つ目の建国(記念)の日とする。現在の建国記念日、2月11日をそのまま1つ目の建国(記念)の日とする。

 

 次いで、近代的な国民国家である明治国家が建国された日を2つ目の建国(記念)の日とする。ただし、具体的に何月何日を建国(記念)の日とするかについては意見がわかれるだろう。大政奉還がなされた日か、王政復古の大号令がだされた日か、明治天皇が即位した日か、あるいはそれらとは別の日か。

 

 最後に、国民主権の戦後の民主主義国家が建国された日を3つ目の建国(記念)の日とする。ただし、こちらも明治国家が建国された日と同様、具体的に何月何日を建国の日とするかについては意見がわかれる可能性がある。

現在、一般に終戦の日と言われている8月15日を戦後の国家が建国された日とみなすか、戦後の憲法が公布あるいは施行された日とするか、それらとは別の日とするか。

 

 1つ目、2つ目の建国(記念)の日に対しては、左派・リベラル派からの反対が予想される。特に、どちらも天皇と建国の日が密接に関係しているから、天皇制を廃止すべきと考える共和主義者の反対は根強いだろう。

 一方、3つ目の建国(記念)の日に対しては、右派・保守派からの反対がおこるだろう。

こちらは、戦後の憲法と建国の日が密接に関係しているから、戦後の憲法に否定的な感情をもつ人たち(押し付け憲法論者、自主憲法制定論者など)からの根強い反対が予想される。

 右派・保守派には、2月11日を3つある建国(記念)の日の1つとすることによって妥協してもらう。左派・リベラル派には、戦後の民主主義国家が建国された日を3つある建国(記念)の日の1つにすることによって妥協してもらう。

大岡越前三方一両損のエピソードではないが、異なる思想・価値観をもつ人たちが、1つ望みをかなえ1つ我慢することによって、対立が武力闘争にまで発展し、幕末以来の内乱状態におちいるのを防ぐことにもなるのだが……。

保守の国・リベラルの国

 

 アメリカのオバマ大統領は就任時だったか、「アメリカは一つ」と発言したが、私は日本は一つである必要はないと思う。

リベラル・デモクラシーの価値観に基づいた憲法が尊重されるのならば、日本が一つであっていい。

 だが、これから10年、20年後には教育勅語が復活し、靖国神社が国家護持され、憲法の内容も明治憲法的なものに改正されそうな気がする。

リベラル・デモクラシーの価値観をもたない右派や保守派に非国民呼ばわりされる位なら、いっそ「保守の国」「リベラルの国」と日本が2つにわかれた方がいい。

 ただし、元々は1つの国であったのだから、北朝鮮と韓国のように紛争状態におちいることは避け、不可侵条約を結ぶ、さらに移民の自由を認める(「保守の国」から「リベラルの国」への、あるいはその逆の国籍変更を容易にする)ことを条件にしてだが。

 「保守の国」は当然、天皇を元首あるいは象徴として祀り上げようとするだろうが、今の天皇陛下は戦前回帰した「保守の国」よりは「リベラルの国」で生活することを望むような気がする。あと皇太子一家も。

(現在の天皇陛下は、「国旗の掲揚・国歌の斉唱は個人の良心の自由に属することであり、強制すべきでない」という現行憲法のリベラル・デモクラシーの理念を尊重している人だからね。)

もっとも、「リベラルの国」が共和政をとるのか象徴天皇制をとるのかは不明だが。

天皇と皇太子は「リベラルの国」、秋篠宮は「保守の国」と皇室が2つにわかれたりして。

 また、「保守の国」は憲法9条などはもたないだろうが、「リベラルの国」が憲法9条・軍隊をどうするのかは問題となるだろう。

現在の日本と同様、憲法9条維持派と改正派の間で論争が生じる可能性がある(武力衝突に発展したりして……)。

 

 人間が社会を形成すると、その中に必ず右寄りの思想の持ち主と左寄りの思想の持ち主があらわれる。

「保守の国」「リベラルの国」もそれぞれ右派と左派が分化するだろう。

「保守右派の国」「保守左派の国」(「リベラル右派の国」「リベラル左派の国」)。

さらに「保守右派・右派の国」「保守右派・左派の国」(以下、同様に続く……)。

社会を思想・価値観に基づいて分裂させていくと、際限なく集団が分化していってしまうだろう。

憲法96条問題

 最近では(マスメディア上では)憲法96条問題は論じられなくなったが、数年前、この問題が論じられていた頃、1つだけ疑問に思ったことがあった。

改正派は、「国会議員の過半数の賛成で改正が発議できるようにしよう」と主張していたが、なぜ「国会議員の5分の3以上の賛成で発議できるようにしよう」というような中間的、折衷的な案を出さないのだろうということだった。

 はじめに「過半数の賛成で発議」という主張をつよく押し出しておき、反対の意見が多かったら、最後に「じゃあ、5分の3以上の賛成で発議できるようにしよう」と譲歩すれば、それだったら受け入れられるという意見が多数出てくる、そういう戦略をとっているのかと思っていたが、結局、96条問題自体論議されなくなってしまった。

 

 ○憲法96条問題をめぐるオセロゲーム

 護憲の立場に立つ人たちは、憲法が非民主的なものに改正(改悪と表記した方がいいのかもしれないが)されるのを危惧して96条の改正に反対する人が多かったようにみえる。

 だが、2005年の郵政選挙のような現象が生じて、そのような勢いに乗って憲法の内容が一気に非民主的なものに改正(改悪?)される可能性もある。そうなった時、憲法の内容を再び民主的なものに改正しようとしても、改正に反対する国会議員が常時3分の1以上占めるために改正の発議がされない、という事態もおこりうる。

そうなった時には、現在、96条の改正に反対している人たちの多くが改正を主張し、改正を主張していた人の多くがそれに反対するという逆転現象がおきるかもしれない。

 

○96条問題に関する個人的見解

 私自身は、「国会議員の過半数」ではなく、5分の3以上の賛成で発議できるようにした方がいいと考えている。(過半数での発議だとあまりにも簡単に発議できるので、それには反対している)

といっても、それは現行の憲法を改正したい、改正しやすいようにしたいと考えているからではない。

 1つの理由は、前節で述べたように、96条が現在のままで憲法の内容が非民主的なものに改正されてしまった場合、それを再度民主的なものに改正するのが困難になるからである。

 そしてもう1つの、より大きな理由は、現在のように憲法改正の発議自体が困難である場合、現行憲法を尊重する意志のない政治家たちが、改正の発議すらできないのならと、憲法を無視して自分たちのやりたいことを既成事実化してしまおうとするからである。(もちろん、まともな立憲民主主義国家ならそんなことはおこらないだろうし、またそれを容認するべきではない。だが、日本はまともな立憲民主主義国家とはいえないし、戦後の憲法は既に形骸化してしまっているだろう。)

 改正の発議要件を少し緩和して、(発議されたときは)国民投票で改正の是非を判断し、否決されたならば、その件について憲法を無視して既成事実化するなどという行為は、どんな厚顔無恥な政治家でも行えないだろう。

 ただ、憲法9条に関しては、集団的自衛権の行使が既成事実化されようとしているから、ここでの提案は既に手遅れになってしまったけれども。

国民投票法と天皇制

 憲法改正に関する国民投票法案をめぐる議論は、日本が民主主義国家として未成熟であることを露呈させてうんざりするものだった。

憲法改正を実現したいという個人的な目標を達成させるために、法案の内容を少しでも憲法改正がしやすいものにしようとした現行法案支持派。

憲法改正に関する国民投票法案を成立させないことによって、憲法改正を阻止しようとした護憲派

 法案の内容をどのようなものにすれば一番よく民意が反映されるのか、日本の民主主義にとって望ましいのは、どのような法案なのかを考えようとした人たちは少数派にすぎなかった。

憲法学者の長谷部恭男は、その著作の中で、憲法改正案が発議されてから2年間位時間をかけて、国民が改正の是非について熟慮するべきだと主張していたが、このような民主主義的な価値観に基づいた意見はほとんど反映されなかった。

 現行の法案で評価できるのは、改正案を一括して賛否を問うのではなく、関連した条項ごとに個別に賛否を問うものになっていることである。

この方式は民主主義的な観点から肯定的に評価できる。

 だが、最低投票率を制定せず、憲法改正案に賛成する人が有権者の20%位しかいなくても改正が成立する点など、内容はもう1度充分に見直しをしたほうがよいだろう。

私自身は、有権者の何%が改正に賛成すれば正当性があるのか、あらためて議論をして合意案を形成する必要があると思っている。

ただ、これに関しては正しい答えというものはないから、結局多数派の意見が通ってしまうのは仕方がないといえる。

憲法を改正したいと考えている人たちが、法案の内容を憲法が改正しやすいものにしようとし、改正に反対の人が法案の内容を憲法が改正しにくいものにしようとするのも仕方がないことだろう。

 

 最低投票率に関した問題で私が一番面白いと感じたのは、次の点である。

私は天皇制廃止論者だが(厳密には、皇室を宗教団体として、政教分離の原則に基づき天皇と政治との形式的なかかわりを廃止するべきという考えだが)、天皇制の廃止は有権者過半数の賛成をもってすべきだと考えている。

 そのような考えの者からすると、天皇制を守るべき日本の伝統と考えている人たちの多くが、有権者の20%位が廃止案に賛成しただけでも天皇制が廃止される可能性のある国民投票法案に賛成したのは面白い現象だった。

天皇制を維持すべきと考えている国民は7割か8割以上だから、天皇制の廃止を唱えた憲法改正案が発議されることはないと考えていたのかもしれない。

あるいは、憲法9条を一刻も早く改正したいと考えていたので、天皇制のことまで頭が回らなかったのかもしれない。

あるいは、現行の国民投票法憲法9条を改正し、天皇制の廃止が議題にのぼったときは、あらためて国民投票法憲法が改正しにくいものにかえればよいと考えていたのかもしれない。

(実際には、天皇制の廃止のことまで考えていなかった人が大部分だろうが……。)