第二次大戦後の3つの歴史観

 現在先進国といわれている国々が過去に行った侵略や植民地支配、これらをどのように評価するかをめぐっては大きくわけて3つの歴史観がある。

 1つ目は、第二次世界大戦戦勝国が行った侵略や植民地支配は是認、黙認したまま、敗戦国の行った侵略や植民地支配のみを批判するもの。

戦勝国側の人間にこのような歴史観をもつ者が多いので、これを「戦勝国史観」と名付けておく。

日本の保守、右派系言論人の一部が「東京裁判史観」と呼んで批判している歴史観は、これとほぼ同じものだろう。

 

 2つ目は、「戦勝国史観」の裏返しとなったもので敗戦国側の人間の主張する歴史観戦勝国の行った侵略や植民地支配は批判しておきながら、自分たちの国の行ったそれは正当化するもの。

日本では、大東亜戦争=アジア解放戦争説を主張する人たちがその典型だろう。

この歴史観を、「戦勝国史観」に対応させて「敗戦国史観」と名付けておく。

歴史修正主義」と呼ばれ批判されている歴史観は、ほとんどがこの立場のものだろう。

また、日本ではこうした主張は「諸君」「正論」などの保守、右派系言論誌に多くみられたので、この歴史観の持ち主を便宜上「諸君正論派」と呼んでおく。

 なお、日本の「敗戦国史観」の持ち主が、ドイツの「敗戦国史観」の持ち主の主張をどのように考えているのか、あるいはその逆はどうなのかは興味深いところである。

同じ敗戦国側の人間どうし、その主張に共感をもつのか、それとも自分たちの歴史観は正しいものだがドイツの(あるいは日本の)歴史観はまちがったものだと考えているのだろうか。

 戦勝国側の「戦勝国史観」の持ち主は、敗戦国の行った侵略、植民地支配を批判しておきながら、自国の行った侵略や植民地支配は、近代化していない未開、野蛮な地域を近代化させることを目的とした正しい行為だったとしてこれを正当化する。

一方、日本の「敗戦国史観」の持ち主は、欧米諸国のアジア支配を批判しておきながら、日本の台湾や朝鮮の植民地支配は、この地域に近代化のためのインフラを整備したとしてこれを正当化する。

お互いに、自国の行為は正当化しておきながら他国の同じ行為は批判するという、自己中心的な考え方といえる。

(現在では、近代化していない国や地域を、そこを近代化させるという大義名分のもとに征服、支配すること自体が批判されるようになってきてはいるが。)

 

 そして3つ目の歴史観であるが、これは戦勝国側が過去に行った侵略や植民地支配、これらをすべて批判するその延長線上で、敗戦国側の行った侵略や植民地支配を批判するというものである。

反帝国主義、反植民地主義の価値観に基づいているので、「反帝国主義史観」「反植民地主義史観」と名付けることにする。

 なお、「諸君正論派」は戦後の日本で主流となった左翼系の歴史観を、敗戦国の人間の唱える「戦勝国史観」とみなし、これを「自虐史観」「東京裁判史観」と呼んで批判している。

だが、左翼系の歴史観が「戦勝国史観」と同じものかどうかは、検証が必要であろう。

左翼系の歴史観が、日本の行った戦争や植民地支配を厳しく批判しているのは事実だが、戦勝国側の行った侵略や植民地支配を是認あるいは黙認しているとはいえないだろう。

実際には戦勝国側の行為も批判しているのだが、その声が日本の行為を批判する声よりも小さいものであるため、「諸君正論派」の目には「戦勝国史観」と同じであるようにみえているだけかもしれない。

あるいは、「戦勝国史観」と「反帝国主義史観」の中間に位置しているというのが妥当な解釈かもしれない。

 

 私自身は3つ目の「反帝国主義史観」の立場である。

日本でも欧米でも左翼系の学者の中にはこの立場の人がいるが、一般的にはまだ少数派にすぎないのだろう。

 敗戦国の日本ですら、自国の過去の行為を批判、否定することに対して根強い抵抗があるのだから、まして戦勝国側の人間が自国の過去の非道徳的な行為を反省し、批判するというのはなかなかできないことなのだろう。