形式民主主義と実態民主主義

 民主主義に関しては、民主主義的な法や制度を整備すればそれでよいと考えている人と、それだけでは不充分で、政治の実態が民主主義的な理念に基づいたものにならなければいけないと考えている人がいる。

前者を「形式民主主義者」、後者を「実態民主主義者」と呼ぼう。

 

 私自身はといえば、政治の実態が民主主義的なものになるのが望ましいとは思うし、またそうしようと地道な努力を続けなければ民主主義は形骸化してしまうとも思う。

だが、人間にできるのは民主主義的な法や制度を作り出すことだけであって、政治の実態を民主主義的なものにしようとする試みは、結局は挫折するのではないかとも思っている。

 民主主義とは、政治はこうあって欲しいという理想、願望であり、また政治はかくあらねばならぬという規範、理念であろう。

しかし、人間の営む政治は、民主主義化する以前の非近代的な政治意識や価値観、さらには人間の性質に大きく影響されていて、これが民主主義社会における「形式(法や制度)、理念」と「実態」との乖離の大きな要因となっているのだろう。

 法や制度は作為的、人為的に作り出すことができるが、人間の内面を思い通りに作りかえることは困難である。

明治の知識人たちは、近代社会にふさわしい個の確立を目標とし、戦後民主主義者たちは、日本人の内面を民主主義社会にふさわしいものにかえようと試みた。

だが、こうした試みはほぼ失敗したとみていいだろう。(部分的には成功したと解釈することもできるが。)

 もちろん、社会が近代化したことによって、また民主主義的な法や制度が制定されたことによって、社会環境、社会制度が逆に人間に影響を与え、人間の性質や内面(政治意識、価値観など)が近代的、民主主義的なものにかわっていくということもあるだろう。

 しかし、こうした内面の変化は長い時間をかけ徐々におこるものであって、何百年、何千年と続いた非近代的、非民主主義的な時代に形成された政治意識や価値観、人間の性質がただちになくなることはないだろう。

 

 民主主義の「形式、理念」と「実態」との乖離は欧米民主主義諸国においてもみられるだろうが、西洋の民主主義的な法や制度を輸入、移植した非西洋地域の民主主義国家においては、その乖離はより大きなものになるだろう。

 戦後の日本に関しては、国民や政治家の多くが明治的な政治意識や価値観しかもっていない社会に、占領軍の力を背景にして民主的な憲法、政治制度が導入されたことが、「形式」と「実態」との乖離をより大きなものにしたといえる。

 民主主義的な政治意識や価値観は、民主主義的な法や制度を作ろうとするその過程の中で徐々に根づいていくのだろう。

自分たちの力で戦後の憲法や政治制度を作り出せなかった日本人は、戦後の憲法や政治制度のバックボーンとなっている民主主義的な政治意識や価値観を、内面化させる機会を失ったまま時をすごしてしまったといえる。

 憲法や政治制度を明治的なものに作りかえれば、「形式」と「実態」との乖離は今よりも少ないものになるだろう。

逆説的だが、日本の国家や社会が戦前回帰したならば、民主主義的な憲法や制度をあらたに作り出す運動を進める中で、多くの日本人が民主主義的な政治意識や価値観を身につけるようになるかもしれない。

(現時点で国民の多くが明治的な体制への移行に賛成するとは思えないが。)