ホッブズとマルクス

 ホッブズマルクスの思想は似ている。

人間が、欲望に基づいた自然な政治行為をした結果生じた「万人の万人に対する闘争状態」。

このような望ましくない状況を改善するために、政治指導者の下に権力を集中させ、その力による統制で秩序や平和をもたらそうとしたホッブズの思想。

これは、上手くいけば秩序や平和をもたらしはするが、同時に多くの人々の自由の抑圧、専制政治という弊害を生み出す。

 一方、人間が欲望に基づいた自然な経済行為をした結果生じた資本主義社会の諸問題(貧困、搾取、経済的不平等など)。

これらの諸問題を、全ての権力を集中させた政治指導者の力によって解決しようとしたマルクスレーニン主義の思想。

これも上手くいったとすれば貧困などの問題を解決できるかもしれないが、同時に自由な経済活動の抑制、専制政治という弊害をもたらす。

(また、実際に社会主義的政治体制をとった場合、多くの労働者はブルジョワジーではなく、プロレタリアートの代表を自称する政治指導者によって搾取されるだけであり、経済的不平等などの問題が解決されることはまずないだろう。)

 

 ホッブズの社会思想を「政治制度を構築する思想」としてみた場合には、その後のロックやルソーの民主主義思想によって乗り越えられるべき思想、あるいはその土台、基礎となる思想として解釈できる。

同様にマルクスの社会思想を「経済制度を構築する思想」としてみた場合には、その後の思想家によって乗り越えられるべき思想、「ポスト資本主義の経済制度」(これを「民主主義的経済制度」と呼んでおく)を構築するための重要な土台、基礎となる思想として解釈できるだろう。

 資本主義と社会主義止揚した経済思想、資本主義と社会主義の良い所だけをとりいれ悪い所を克服した経済制度。そのような思想、理論を生み出すことができ、なおかつそれが充分な批判に耐えうるものであるならば、そのような思想、理論を生み出した人は、社会思想史の教科書にホッブズ、ロック、ルソー、マルクスの次にくる大物として名前が残るだろう(それに成功した人がまだいないだけで、そのような試みをしている人は世界中に何人もいるのかもしれないが)。

 

 ただ、「ポスト資本主義の経済制度」の思想、理論が今後生まれてくるとしても、それは容易になされることではないだろう。

ホッブズとロック、ルソーの間に一世紀以上の間があいているのだから、マルクスから一世紀以上たたなければ生まれてはこないだろう。

 だが、そのような思想を生み出すためのヒントはすでにあるだろう。

ロックやルソーの民主主義思想が、人間の自由な行為を原則としながらも、それによって生じる弊害を少なくする制度を構想したように、「ポスト資本主義の経済制度」も人間の自由な経済活動を前提としながらも、それによって生じる弊害を減少させる制度とすべきだろう。

 ただし、近代化した産業社会、民主主義社会においては、前近代のような土地や人の支配をめぐる武力闘争は非合法とされ、人権思想の発達により他者の権利や生存を脅かす行為も規制されるようになった。同じように「民主主義的経済制度」においてもあらゆる経済活動が無条件に容認されるべきではないだろう。

 貧困、飢餓など他者の生存を脅かす結果をもたらす経済行為、社会の安定、調和や人々の生活に重大な悪影響をもたらす経済行為には一定の規制が必要であろう。

その場合には何が「規制すべき経済的自由」か、何が「規制すべきではない経済的自由」なのかを厳密に考察する必要があるだろう。

そして、ある経済行為を規制した結果がどうなるかも充分に検討する必要があるだろう(ある法律の制定が、本来の目的とは正反対の結果をもたらすということが往々にしてあるのだから)。

 

 なお私は、「ポスト資本主義の経済制度」(「民主主義的経済制度」)の思想、理論が生み出されれば、それによって人類の未来が明るくなるなどと楽観的に考えているわけではない。

 まず、その思想、理論が現実に実現可能かどうかがわからない。

それにそのような制度が実現されても、当初予期していなかった大きな弊害が生じる可能性もある(現実の社会主義国家が、マルクス主義者たちが目指していた国家、社会とはまったくことなったものとなったように)。

 そしてフランス革命時がそうであったように、ある国で社会体制の根本的な変革がおこった場合には、それをめぐって国際紛争が生じる可能性が高いだろう。

核時代の今日、資本主義体制の是非をめぐって世界戦争がおきれば世界が崩壊してしまうこともあるだろう。