二重憲法・二重国家体制としての戦後日本

 戦後の日本では、憲法観・国家観について相容れない異なる考え方をもつ人たちが共存している。

一方は、明治憲法大日本帝国憲法)のうち、自分たちが改正してもいいと考えている条項のみを改正した憲法が、本来のあるべき日本の憲法であると考えていて、戦後憲法戦後民主主義体制に否定的な考えをもつ人たち。

 もう一方は、基本的には戦後憲法戦後民主主義体制に肯定的な考えをもつ人たち。

前者を“明治憲法”派と表記し、後者を民主憲法派または戦後憲法派と表記する。戦後憲法派と表記したときは、憲法9条改正に反対する人たちをあらわし、民主憲法派と表記したときは、憲法9条改正を主張するリベラル改憲派も含んだうえで、戦後の民主主義体制を肯定的に評価している人たちをあらわすこととする。

 

 ただし、このような分類は、戦後の憲法[体制]に対して肯定的な感情をもっているか、否定的な感情をもっているかという極めて大雑把な分類にすぎない。

一口に“明治憲法”派といっても、大日本帝国憲法をそのまま復活させるべきと考えている極右派から、大日本帝国憲法を大幅に改正して、現行の憲法にちかいものにすべきと考えている人まで、理想とする憲法の具体的な内容についてはかなり幅広い考え方の相違があるだろう。

 同じように戦後の憲法を肯定的に評価している人たちも、憲法9条は改正すべきと考えているリベラル改憲派から、現行憲法の条文は一言一句変えてはならないと考えているガチガチの護憲派、さらには天皇制の廃止を主張する人まで、かなり幅広い考え方の相違がみられるだろう。

 

  *注記

 リベラル改憲派は、戦後憲法そのものに対する感情から次の2つのタイプに分けられるだろう。

1つは、戦後憲法そのものに対しては否定的な感情をもっているが、大日本帝国憲法を大幅に改正して、9条以外は現行の憲法にちかいものにすべきと考えている人。

もう1つは、戦後憲法そのものに対しては肯定的な感情をもっているが、憲法9条は改正すべきと考えている人。

 ここで提示した、“明治憲法”派・「民主憲法派/戦後憲法派」という分類は、憲法の具体的な内容についての価値観よりは、戦後の憲法そのものに対して、あるいは戦後の憲法体制に対しての価値観から分類した側面もある。

(ただし、“明治憲法”派は、個人の自由に対して否定的な考えをもつ国家主義的な考えの人が多いが、「民主憲法派/戦後憲法派」は、個人主義自由主義など欧米のリベラル・デモクラシーの価値観を肯定的に評価する人が多いといった点など、思想・価値観による違いもみられる。)

 

 “明治憲法”派が、政治や社会に対してたいした影響力をもたない少数派であったのなら、さしたる問題は生じなかっただろう。だが、政治権力の中枢で主流派・多数派となったのは常に“明治憲法”派だった。

 憲法を遵守すべき立場にある政治家や官僚たちが、自分たちが遵守すべき憲法に対して否定的な感情をもっているという状況。

55年体制成立以降、ごくわずかな例外期間を除いて与党の立場にいた自由民主党が、自主憲法の制定、現行憲法の改正を掲げているという状況。

国民の多数派は、政権は自由民主党に任せるという選択をしたが、自民党の掲げる自主憲法案や憲法改正案は必ずしも支持していないという状況。

 以上の点から戦後の日本の政治状況は、二重憲法体制・二重国家体制にあるといえるだろう。

 

○二重憲法・二重国家体制の成立

 なぜ、このような二重憲法・二重国家体制が生じたかといえば、それは戦後の憲法が占領軍の力によってつくられたからだろう。

アメリカに占領されなければ、日本人の間で明治憲法体制を維持・継続させようとする右派・保守派と、国民主権の民主的な憲法体制をつくろうとする左派・リベラル派の戦いが政治・言論の世界で繰り広げられただろう。

 両者の戦いが武力闘争にまで発展すれば、幕末以来の内乱状態におちいった可能性もあった。だが、現実には、敗戦の結果アメリカに占領され、占領軍の力で国民主権の民主的な憲法がもたらされたため、両者による戦いが全面化することはなく、流血の事態におちいることなく、民主的な憲法体制が成立した。

 だが、国民主権の民主的な憲法体制を、日本の国民自身の力でつくりだすことができず、外国の占領軍の力でそれがもたらされたため、“明治憲法”派と民主憲法派の対立が、いびつな形で戦後70年間も続くこととなった。

 

 アメリカに占領されることなく、“明治憲法”派と民主憲法派の戦いで“明治憲法”派が勝利していれば、日本の憲法は、大日本帝国憲法のうち、右派・保守派が改正してもいいと考えている条項のみを改正したものになっていただろう。そうなっていた場合、日本の憲法自由民主党の作成した憲法草案にちかいものになっていたかもしれない。

 一方、“明治憲法”派との戦いに民主憲法派が勝利していれば、彼らが憲法制定権力となり、日本人自身の力で現行憲法と同じような民主的な憲法が制定されただろう。

(ただ、その場合でも、敗戦・占領という経験をしなかったら、軍隊の保有と交戦権を否定した憲法はもたなかったと推定できる。先制攻撃を禁止した条文は制定された可能性もあるが……。)

 “明治憲法”派との戦いに民主憲法派が勝利していれば、余程のことがない限り、民主憲法派が国会で多数派を占めていただろうから、政治権力の中枢にいる政治家たちが、自分たちが遵守すべき憲法に否定的な感情をもつという喜劇的な状況は生じなかっただろう。 

 

○“明治憲法”派のジレンマ

 戦争末期、あるいは終戦後、民主派による革命や武力クーデターが成功し、民主憲法派が権力を握っていたら、彼らによって民主的な憲法が制定されていたかもしれない。

 だが、戦争終結後も政治権力の中枢にいたのは、明治憲法体制を継続させたいと考えていた右派・保守派であり、アメリカ占領軍が、彼らの意向を無視し、彼らが望まない憲法を彼ら自身の手で制定させるという形をとったために、右派的・保守的価値観をもった政治家や官僚たちは、自分たちが望まない憲法を占領軍によって押しつけられたという不満・鬱屈をかかえ続けることとなった。

 国民の多数派が“明治憲法”派と同じような考えをもっていたのなら、彼らが制定しようとする憲法案(それが自主憲法という形をとるのか、現行憲法を改正するという形をとるのかは不明だが)はより多くの人に受け入れられただろう。

 だが、国民の多くは右派・保守系の政治家たちが唱える戦前回帰的な憲法案よりは、戦後の憲法の方をより良い憲法であると判断したために、彼らの主張は一部の国民にしか受け入れられなかった。

 国民の多くは、憲法の制定過程や誰が憲法の原案をつくったかということよりも、憲法の内容の方を重視しているので、右派・保守派の唱える「押しつけ憲法批判」や、「占領国による憲法制定は国際法違反だ。」という主張は一部の国民にしか支持されなかった。

 

顕教としての戦後憲法密教としての“明治憲法

 戦後の憲法は国民の多数派に支持されるようになったが、政治権力の中枢には、依然“明治憲法”派が主流派・多数派として存在しているという状況は続いているだろう。特に政治家に関しては、護憲を旗印にした政党・政治家は憲法改正の発議を阻止する3分の1以上の議席を占めるのが精一杯だったといえる。

 

 “明治憲法”派にとっての戦後憲法とはただの飾りであり、自分たちが遵守しなければいけないものではない。必要であれば戦後憲法などは無視してもいいと考えている節もある。だから、時として戦後憲法の価値観からすればあきらかに憲法違反としか思えない行為を、合憲である、憲法違反ではないと主張して実現しようとすることがある。

 しかも最高裁の判事の中にも、“明治憲法”派と思える人が何人もいて、戦後憲法の理念・価値観からすれば違憲としか思えない行為を恣意的、強引な憲法解釈で合憲と判断するケースがみられる。

もっとも、違憲としか思えない行為を合憲と判断しているのは、政府や自民党の意向に添った判決を出さないと出世できないという仕組みが出来上がっているからだとも考えられる。

 さらに言えば、司法が行政から独立しているという三権分立の制度自体が、顕教としての戦後憲法体制の象徴であり、統治構造の実態は、司法は行政の下にある“明治憲法”体制であり、最高裁判所の役割は、顕教としての戦後憲法からすれば違憲にあたる行為を恣意的な憲法解釈、強引な憲法解釈で合憲と判断し、どのような解釈をしても合憲と判断できないときは、憲法判断をしないことによって政府・行政機関の行為を容認することにあるのかもしれない。

 

  *注記

 昨今の、集団的自衛権が合憲か違憲かをめぐる混乱しているとしか思えない状況も、「顕教としての戦後憲法密教としての“明治憲法”」という概念をもちだせばすっきりと理解できる。集団的自衛権が合憲であると発言している人の多くは“明治憲法”派であり、彼らの頭の中にある真の日本国憲法には「憲法9条」などという(彼らにとっては)馬鹿馬鹿しい条文などは当然ない。

 政治家や官僚が遵守しなければいけないのは、顕教としての戦後憲法ではなく、密教としての“明治憲法”であると考えているから、彼らにとっては、集団的自衛権の行使は当然合憲となる。

 

○戦後憲法明治憲法神仏習合体制

 戦後憲法と“明治憲法”の二重憲法状況は、政治家・官僚だけではなく国民の中にもみられる。国民の多数派は、“明治憲法”派の唱える憲法案よりは戦後の憲法の方を支持しているようにみえるが、戦後憲法の価値観からすれば違憲としか思えない政策や法律・条例を支持しているケースもある。

 国民の多数派は、“明治憲法”派の唱える憲法案は支持していないが、戦後憲法の理念や価値観を内面化しているようにもみえない。日本国民にとっての憲法とは、戦後憲法明治憲法、部分的に矛盾している箇所のある憲法をともに支持している、ある種の神仏習合体制といえるような気がする。

 典型的なのは、公立学校の教師に対して君が代の斉唱が職務命令された時の事例だろう。

憲法19条の良心の自由には、国歌を斉唱する良心の自由とともに、国歌の斉唱を拒否する良心の自由も含まれているというのが一般的な解釈だろう。

そして、憲法19条の良心の自由は公立学校の教師に対しても認められた権利だというのが一般的な解釈だろう。

 戦後憲法を肯定的に評価している人たちにとっては、公立学校の教師も当然国歌の斉唱を拒否する良心の自由が保障されていると考えているから、君が代の斉唱を拒否した教師を職務命令に従わなかったとして処分することは憲法違反だと考えるだろう。それ以前に、国歌の斉唱を職務命令すること自体を憲法違反だとみなすこともできる。

 だが、公立学校の教師にも国歌の斉唱を拒否する良心の自由が保障されていると考えている国民は多数派とはいえない。公立学校の教師に国歌の斉唱を拒否する良心の自由などは認めるべきでないと考えている人はかなり多いかもしれない。

特に、公立学校の教師に君が代の斉唱を職務命令し、従わなかった教師を厳しく処分する方針を実行した元東京都知事石原慎太郎や元大阪府知事橋下徹が高い支持率や人気を保っていた事実をみると、戦後憲法の良心の自由の価値観が、どれだけ国民の間に浸透しているのか、疑問を持たざるをえない。

 

 他にも、最高裁によって違憲状態と判断された、1票の格差を放置した選挙区割が何十年間も続いていても平気であったり、戦後憲法の理念や価値観が多くの国民に理解されていないケースはいくつもみられるだろう。

最高裁の判事が、違憲でなく違憲状態という表現をしたこと自体にも、戦後憲法の理念や価値観が、裁判官自身にも浸透していないのではと思わせる。二重憲法体制、憲法の習合体制が他ならぬ司法機関にもあてはまっているのではないだろうか?)

 

○二重憲法体制の行方

 “明治憲法”派は、戦後憲法の条文が1つも改正されていないという点で勝利してはいないが、戦後憲法を部分的に形骸化させたといった点で、敗北もしていない。一方の戦後憲法派も、戦後憲法の条文を1箇所も改正させなかったという点で敗北はしていないが、戦後憲法が部分的に形骸化したといった点で勝利したともいえない。

 戦後の憲法状況は、異なる価値観・憲法観をもつ勢力が綱引きをしているが、どちらも勝利できない膠着状態が何十年間も続いているような状況といえる。

 

 今後、二重憲法体制がどうなっていくか、短期的なケースと中長期的なケースにわけ、いくつかのパターンを想定してみる。

 

  *注記

 現在の私は、憲法9条の改正を戦前回帰路線とみなす立場をとっていない。ここでは9条以外のリベラル・デモクラシーの価値観に基づいた憲法がどうなっていくのかを想定している。

 また、近年では国会を一院制にしたり、統治構造を中央集権制から地方分権制にしたりといった、従来の戦前回帰的な憲法改正案とは異なる改正案も提唱されている。ここでは、そのような憲法改正案は戦後憲法体制、あるいは民主憲法体制内の憲法改正とみなして、戦前回帰的な憲法改正案とは区別しておく。

 

・短期的なケース

1 憲法が、“明治憲法”派の望むものになった場合

2 現行憲法が改正されない場合

 

・中長期的なケース

短期的に1のケースのとき(憲法が、“明治憲法”派の望むものになった場合)

A “明治憲法”派の望む形の憲法が何十年も続いていく

 最終的に“明治憲法”派が勝利したといえる。

戦後の憲法は、結局、占領軍の力添えがあったからこそ実現できたのであり、日本人自身にはこのような憲法をつくることはできなかったといえる。

 

B 再度、民主的な憲法に改正される

 “明治憲法”的な憲法を、日本人自身の力で民主的なものに改正していく過程を通じて、多くの日本人の中にリベラル・デモクラシーの理念や価値観が内面化していく。国会で多数派を占めるのは民主的な理念や価値観をもった政治家となり、“明治憲法”派は政治や社会にさしたる影響力をもたない少数派になっていく。

 

短期的に2のケースのとき(現行憲法が改正されない場合)

A 中長期的には“明治憲法”派の望むような形の憲法になる

 最終的には“明治憲法”派が勝利したといえる。

 

B 憲法は改正されないが、現行憲法の一部形骸化状態は続いている状態

 二重憲法体制が、今後何十年間も継続していくケース。

明治憲法”派が、依然、権力中枢で力をもち続け、リベラル・デモクラシーの理念や価値観が、国民の多数派には内面化されない状況が続いていく。

 

C 民主憲法体制が定着する

 民主的な理念や価値観をもった政治家や官僚が、国会や権力の中枢部で多数派となり、“明治憲法”派が少数派となった状態。国民の多数派の中でリベラル・デモクラシーの理念や価値観が内面化していく。

 ただ、この場合、成果が目にみえる形であらわれないので、民主憲法派の目標が達成したかどうかわかりづらいという難点がある。

日本の軍事政策 ― 新理想主義的立場からの一私案

 戦後の日本では、護憲(憲法9条擁護)か改憲憲法9条改正)かをめぐって論争が繰り広げられてきたが、すべての国民がどちらかの陣営に属さねばならず、中立的立場、第三の立場に立つことができないのであれば、私は護憲派の側を選ぶ。

だが日本は、憲法9条を改正するかしないか、親米か反米かといった議論をする前に、政府の軍事政策の基本方針を国民の同意を得た形で確立する必要があるだろう。

 

 政府の基本方針は次の4つの立場がある。

(1)他国を武力攻撃、先制攻撃することも可能とする

(2)他国を不当に武力攻撃はしないが、海外でおきた紛争には(一定の条件の下)武力行使を伴って介入できることとする

(3)他国を不当に武力攻撃せず、海外でおきた紛争には(一定の条件の下)武力行使を伴わずに介入することとする

(4)専守防衛、一国平和主義的な立場をとり、海外の紛争には介入しない

 

 これから述べる説は、従来の護憲派の主張を旧理想主義とみなし、新理想主義的立場から(2)の方針を正当化させるものである。

 

 旧来の護憲派の主張は、アナーキズムの思想-警察を、富や力をもつ者が他者を支配、抑圧するための装置とみなし、これの廃棄を主張する思想-と近いものがある。

いったん制定された警察組織を廃止することは困難なことであるが、もし廃止できたとしても、その後にくるのは支配や抑圧のないユートピア的な社会ではなく、力のある者が他者を私的に支配する封建的な社会にすぎないであろう。

多くの人が、自らの身を自分自身の力で守らねばならない「万人の万人に対する闘争状態」に戻るだけであろう。

 憲法9条の理念に関しても、日本だけが軍隊や交戦権を放棄しても、それは日本がかつてのように「自衛戦争だ」「解放戦争だ」といった大義名分を掲げて他国を武力攻撃することができなくなるだけである。

(ただ私は、日本はこの立場―他国を不当に武力攻撃しない立場―は守り続けるべきだとは思っている。)

 かつての大日本帝国のような国が、何らかの大義名分を掲げて他国を不当に武力攻撃する事態がおきれば、それは憲法9条の理念に反したことであり(といっても、日本の同盟国アメリカが既にそのようなことをしているが)、また他国が日本を武力攻撃した場合には、多くの国民の生命が失われることになる。

 

 日本がとるべき道は、憲法9条を放棄して無法状態といえる国際政治の現実世界に復帰することではなく、憲法9条の理念を国際政治の世界に活かす方法を模索することだろう。

 そして、その方法の1つは、戦争自体を違法行為とする憲法9条の理念に基づいた「新国際法」を制定し、軍隊を国際法を機能させるための機関へと改変することであろう。

 だが、そのような国際法や国際的な治安維持組織は、現時点では実現困難であるし、実現できるとしても何百年も先のことであろう(現在の国際法でも先制攻撃自体は禁止されているそうだが、実質的に機能していないので上記の「新国際法」とは別のものとしておく)。

 

 だから、とりあえずはそのような目標を実現させるまでの暫定的な措置として、自衛のための組織として自衛隊を位置づける。

そして自衛隊の行動規範となるものを、<国際法の理念>として制定する(この<国際法の理念>は将来制定すべき国際法の雛形とすべきものでもある)。

自衛隊の海外派兵は、<国際法の理念>に反した軍事行動が行われた際、その地域の秩序回復、治安維持を目的として行い、その行動範囲も<国際法の理念>に則ったものとする。

<国際法の理念>に「他国への不当な武力攻撃を禁止する」条項をいれておけば、日本政府がそれを遵守する限り、日本から戦争を仕掛ける行為は防止できるだろう。

 アメリカとの関係については、アメリカの軍事行動が<国際法の理念>に則っている場合には、これに協力することも可能とする。

(ただし、法的に可能とするだけの話であり、実際に協力するかは政府の判断によって決定すべきである。)

一方、アメリカの軍事行動が<国際法の理念>に反している場合には、中立的な立場をとってこれには協力しない。

アメリカに対しては、日本が遵守すべき<国際法の理念>を明示しておき、これに反した要求には応じられないことを事前に説明しておくべきだろう。

 また、日本の掲げる<国際法の理念>に共鳴する国があれば、その国と協力関係を結び、将来の「国際連邦」の礎とすべきだろう。

(ここでは、自衛隊に2つの機能-自衛行為、海外での国際紛争介入行為-があることとしたが、日本の保有する軍事力を、自衛隊と国連軍の一組織の2つにわけるという方法もあるだろう。

経済的効率を考えれば前者の方が望ましいし、現時点では国連軍自体が存在していないので国連軍の一組織をあらたに制定する意味がないが。)

 

 ただ、これまで述べてきたことは非現実的であるだけでなく、理論的、思想的にも矛盾や問題点を抱えているだろう。

アメリカや、アメリカが支援する国が<国際法の理念>に反した行為をしても黙認するのに、アメリカと敵対関係にある国が<国際法の理念>に反したことをした時には軍事介入するというのは、不公平、不公正だろう。

 また、将来戦争そのものを違法とする国際法が制定されたとしても、同様の不公平、不平等が生じるだろう。

近代市民社会における法や警察が、マルクス主義者が批判したように、治安や秩序を維持するという名目で富や力をもつ人たちの利益を優先的に守り、社会的、経済的弱者を抑圧する機能を果たしている側面は否定できないだろう。

 大国・先進国と中小国・途上国の間に経済をはじめ様々な不公平、不平等がある状況で、「新国際法」「国際的な治安維持組織」が制定されても、それらが大国の利益を擁護し、中小国を抑圧する機能をもたらすことになるだろう(ただし、それらが大国の不当な軍事行動を規制する役割も果たしはするだろうが)。

 

 また、ここで述べた案が実際に採用されたとしても、今度は<国際法の理念>の内容をめぐって、かつての護憲派改憲派のような論争が繰り返されるかもしれない。

<国際法の理念>の内容とその解釈次第では、これが不当な戦争や軍事行動を正当化させるためのレトリックとして利用されるだろう。

一方、<国際法の理念>の内容を厳密なものにすれば、日本は海外での紛争には一切介入できなくなるだろう。

 だが、1980年代までのように、海外の紛争には介入しないという方針に戻るのでないのなら、どのような状況、条件なら自衛隊を海外に派兵できるのか、あらかじめ明確な基準を定めておくべきだろう。

 

 最後に、私自身は憲法9条の理念を擁護する立場からこうした案を提示したが、この案は護憲派の人たちからは、自衛隊の海外での武力行使を容認するものとして批判されるだろう。

一方、改憲派の人たちは、この案を机上の空論として否定するのでなければ、憲法9条改正を正当化するレトリックとして利用するだけであろう。

そして、憲法9条が改正されれば、結局は日本が他国を武力攻撃することも容認されることになってしまうだろう。

護憲派とは何か ― 反戦平和の思想を考える

 護憲派とは、憲法前文と9条に表明されている反戦平和主義の思想を肯定的に評価している人たちのことだろう。

が、反戦平和の思想をどのように考えるのかについては必ずしも意見の一致をみていないだろう。

 他国から武力攻撃をうけた際、これに対して戦うことすらも否定するのが真の「護憲派反戦平和主義者)」だというのであれば、私は護憲派ではない。(自衛のための戦争すら否定する考えは「絶対平和主義」といわれているのだろうが。)

 だが、不当な戦争、不正な戦争は行わないという考え、あるいは他国から武力攻撃をうけた際に、これに対して戦うような「やむをえぬ戦争」以外は行わないという考えが反戦平和の思想であり、これを支持する人が護憲派だというのであれば、私は護憲派であろう。

(ただし、何が「不当な戦争、不正な戦争」なのか、何が「やむをえぬ戦争」なのかについては絶対的な基準というものはなく、人によって判断、解釈がちがうという問題はあるが。)

 

 「絶対平和主義」以外の反戦平和の思想には、「やむをえぬ戦争」以外は禁止すべきという考え方と、「絶対やってはいけない戦争」のみを禁止すべきという2つの考え方がある。

(「やむをえぬ戦争」と「絶対やってはいけない戦争」との間には、そのどちらともいえないグレーゾーン、あるいは中間的な戦争も想定されるが。)

 前者の場合、「やむをえぬ戦争」の範囲を際限なく拡大していけば、ほとんどの戦争が正当化されてしまうだろう。

後者の場合も、「絶対やってはいけない戦争」の範囲を狭めていけば大部分の戦争が可能となってしまうし、そもそもこの立場は「絶対やってはいけない戦争」以外は肯定しているのだから、こういった考えを反戦平和の思想とすること自体に無理があるのかもしれない。

 

 反戦平和主義を純粋に思想的に追及していけば、結局は「絶対平和主義」の立場に行き着かざるをえないだろう。

だが、他国から武力攻撃をうけた際に抵抗すらしないというのは(非暴力的な抵抗運動をすればいいと主張するのかもしれないが)、多くの人の生命が失われるのをそのまま見過ごすことにもなる。

人の生命よりも反戦平和の思想、理念の方が大事だという倒錯した状況に陥ってしまうことになる。

 この問題は、反戦平和の考えを放棄するのでも、思想、理念として純粋に追及するのでもなく、「やむをえぬ戦争」、「絶対やってはいけない戦争」がどのようなものかを具体的に明らかにし、不当な戦争、不正な戦争はしないという現実的な態度をとることが、最も賢明な選択であろう。

 

○「やむをえぬ戦争」と「絶対やってはいけない戦争」

 「やむをえぬ戦争」が、他国から武力攻撃をうけた際、これに対して戦う戦争であるという考えには多くの人が同意するであろう。

現実問題としても「個別的自衛権」の行使という形で、この戦争を行うことは憲法上問題ないとされている。

 一方、「絶対やってはいけない戦争」が、正当な理由なく他国を武力攻撃することであることにも多くの人が同意するであろう。

(正当な理由があれば武力攻撃してもいいのか、正当な理由とはどのようなものかといった疑問はおこると思うが。)

 多くの人が同意できる常識的な反戦平和の考え方とは、「他国から武力攻撃された時以外には戦争をしないこと」、「正当な理由なく他国を武力攻撃しないこと」の2つであろう。

 

 だが、現在政治問題として想定されているのは、このどちらでもない戦争に日本がどう対応するのかという問題であろう。

1つは「集団的自衛権」の問題であり、アメリカの行う戦争に「集団的自衛権」を行使して参加するのかという問題。

もう1つは海外でおきた紛争に、「集団的安全保障」に参加するという形で介入するのかという問題。

 「やむをえぬ戦争」以外はやってはいけないという立場にたてば、これらの戦争には介入すべきでないということになる。

一方、「絶対やってはいけない戦争」以外はやってもいいという立場にたてば、これらの戦争に参加してもいい(あるいは参加すべき)ということになる。

護憲派といわれている人たちは前者が多く、改憲派といわれている人たちは後者がほとんどだろう。

 

 こういった現実的な問題については、憲法問題を曖昧にしたまま、アメリカに要求されてから泥縄式に対応を決めるやり方の弊害がでてきているといえるだろう。

 集団的自衛権の行使に関しては、アメリカが不当な武力攻撃をうけた際にアメリカを支援することは道義的に正当な行為だろう。

だが、アメリカが正当性のない軍事行動をとった時に、集団的自衛権を行使するという名目でこれを支援するということが現実にはおこるだろう。

集団的自衛権の概念を恣意的に解釈して正当性のない戦争を行う危険が懸念される。

 

 集団的安全保障の問題に関しては、かつてのような海外の紛争には介入しない方針に戻るのか、現在のように武力行使を伴わない形でこれに介入するという方針を続けるのか、それとも武力行使を伴う形で介入する立場に方針転換するのか、基本的な方針を明確にする必要があるだろう。

そして海外の紛争に介入するのなら、どのようなケースの時に介入すべきなのか、こちらも基準を明確にする必要があるだろう。

日本の軍事政策 ― 2つの理想主義と現実主義

 戦後日本の軍事政策に関する考え方には、2つの種類の「理想主義と現実主義」の対立がある。

1つは、憲法9条を擁護しようとする「反戦平和主義」の理想主義と、これを改正して「普通の国」になろうとする現実主義の対立。

もう1つは、戦後の日本がアメリカの従属状態にあるという現実を受け入れて、この状態を継続しようとする現実主義と、従属状態を脱しようとする理想主義の対立。

 

 そして、2つの理想主義と現実主義を組み合わせると、4つのタイプの考え方になる。

1つ目は、憲法9条を改正し、かつ対米従属状態を脱しようとするもの。

従来、国粋派、反米右翼といわれている人たちがこのような主張をしていた。

最近では、憲法9条のみを改正し、その他の民主主義的な憲法の条項は維持しようとするリベラル改憲派といえる人たちの中にもこうした主張をする人がみられる。

日米同盟を見直し日本の軍事力を強化しようとする「自主武装路線」と、日米同盟は維持したまま日本の軍事力を強化しようとする「対等なパートナーシップ路線」がある。

 

 2つ目は、対米従属状態を維持したまま9条を改正しようとするもので、「自衛隊の米軍一体化路線」といえる立場である。

21世紀に入り、小泉-安倍政権下でこのような方向性が模索されたといえる。

改憲派といわれる人の多くはこの立場であろうし、現実に9条が改正される時は、この方針のもとでなされる可能性が高いだろう。

 

 3つ目は、対米従属状態を維持し、かつ9条も維持しようとするもの。

アメリカの軍事的要求には「解釈改憲」という形で応じる立場で、戦後日本の政府が一貫してとり続けてきた立場でもある。

日米安保憲法9条をセットにする」という考え方もこれに属するだろう。

 

 4つ目は、9条を維持したまま対米従属状態を脱しようとするもので、「非武装中立路線」がこの立場の代表的な考え方だろう。

なお、軍隊と交戦権を放棄した状態で、どのようにしてアメリカの従属状態から脱するつもりなのかは不明である。

アメリカとの話し合いによって従属状態を脱せると考えているのかもしれないが、アメリカがこの要求を受け入れなければ実現はできない。

超理想主義といえる観念的な考え方ではある。

 

 では、私自身の考え方はどのタイプなのだと疑問に思う人もいるかもしれないが、この問題は単純にどの立場がよいといえるものではない。

理想としては「非武装中立路線」が一番望ましいが、それが実現困難であることは前述した通りである。

現実的に考えれば「解釈改憲」という形でアメリカとの関係を上手くやっていくのが得策だともいえるが、既にアメリカの軍事的要求が「解釈改憲」では対応できないところまできているともいえる。

かといって「自衛隊の米軍一体化路線」は、日本を完全にアメリカの属国状態に陥らせる危険性がある。

それでは「対等なパートナーシップ路線」はどうか。

在日米軍は、日本が再び軍国主義化してアメリカに牙をむけないよう蓋として存在しているという説がある。

この説が正しいのならば、「対等なパートナーシップ路線」もまたアメリカがそれを拒否すれば実現は困難である。

また、「自主武装路線」をとった場合、下手をすればアメリカとの戦争に発展し再占領されるという最悪の結果をもたらしかねない。

そうならなくても、アメリカとの経済関係が上手くいかなくなり、国民生活に悪影響を及ぼす可能性は高いだろう。

 

 この問題は、戦後の日本がアメリカの占領状態からはじまったことによって抱え続けることになった難問である。

外国の従属下で「平和と繁栄」を謳歌するのか、それとも「平和と繁栄」よりも従属状態からの脱却をめざすのか。

また憲法9条の平和主義が、アメリカの軍事力の傘の下で保たれているという矛盾をどうするのか。

 これらの問題は、理想主義か現実主義かといった二者択一で解決できるものではなく、理想と現実のバランスを保ちながら、国民にとって一番望ましい政策を選択しなければならないという高度に政治的な問題であろう。

憲法9条改正をめぐる三つ巴戦

 1980年代までは、憲法9条を改正すべきと考えている人たちは少数派にすぎなかった。だが、90年代以降改正派の数は徐々に増えているだろう。

現時点で改正賛成派と反対派どちらが多いのか、正確な数はわからない。

もしかしたら半分半分といったところなのかもしれない。

そして、将来的には改正賛成派が多数派になるかもしれない。

 

 「護憲派」と言われている人たちはそのような状況に危機感をもっているかもしれないが、仮に改正賛成派が多数派となっても9条が改正されるかはわからない。

といっても、それは国会議員の三分の二以上が賛成しなければ改正を発議できないからというわけではない。

9条を改正すべきだと考える人が多数派となったとしても、今度は9条をどのように改正するかをめぐって意見の対立がおきる可能性があるからだ。

 

 私のみたところ、9条改正派は3つのタイプに分類できる。

1つ目は、9条を改正して日本が他国を武力攻撃できることを合憲化しようと考えている人たち。

この立場を「武力攻撃容認派」と呼んでおく。

2つ目は、日本が他国を不当に武力攻撃することは禁止するべきだが、海外でおきた紛争には介入できるようにすべきと考えている人たち。

この立場は「海外紛争介入派」と呼んでおく。

3つ目は、憲法は改正すべきだが、その改正案に自衛隊の役割を専守防衛に限定すると明記すべきと考えている人たち。

こちらは「専守防衛改憲派」と呼んでおく。

ただし、自衛隊の役割を専守防衛に限定すべきと考えている人たちは9条改正反対派(いわゆる「護憲派」)が圧倒的に多く、「改憲派」の中で3つ目の立場をとっている人は極少数にすぎないだろう。

 

 三者の「改憲派」が合意できる改正案を作成できなかった場合は、結局改正反対派が多数派となり憲法は改正されないだろう。

もし9条が改正されるとしたら、それは次のような場合だろう(「専守防衛改憲派」は自衛隊の海外での武力行使に反対する立場で、実質的には「護憲派」とかわらないのでこれからは残り二者の「改憲派」に関して述べていくこととする)。

 

 まず、どのようにでも解釈できる曖昧な改正案を作成し、「海外紛争介入派」がこれに同意した場合。

ただし、「海外紛争介入派」が「他国への武力攻撃を容認したと解釈できる改正案」には賛成できないとした場合には、両者の合意案は形成されないだろう。

 

 次に、改正案に「日本の他国への不当な武力攻撃を禁止する条項」をいれるべきとする「海外紛争介入派」の主張を、「武力攻撃容認派」がいったんうけいれた場合。

1度目の憲法改正でまず自衛隊の海外での武力行使を解禁しておき、その後時機をみて2度目の憲法改正を行い、日本が他国を武力攻撃できるようにするという「二段階憲法改正路線」を「武力攻撃容認派」がとった場合。

ただこの場合も、「武力攻撃容認派」が「他国への武力攻撃を禁止する条項」を改正案にいれることに反対した時には、両者の合意はえられないだろう。

 

 憲法9条が改正されるかどうかは、同床異夢ならぬ異床同夢、異なる考え方をもつ「改憲派」が、9条を改正すること自体を目的として妥協するか、それとも自分たちの主張を反映させた改正案の成立に固執するかによってかわってくるだろう。

日本の軍事政策の基本理念に関して

 憲法9条自衛隊、日本の軍事政策(防衛政策、安全保障政策)に関する問題をめぐっては、改憲=9条改正か、護憲=9条維持かといった二項対立で議論がなされているケースがほとんどだろう。

 改憲派は「はじめに改憲ありき」、護憲派は「はじめに護憲ありき」で、お互いが自分たちの主張をぶつけあうだけであって、多くの国民にとって一番よい軍事政策のあり方を議論によって形成しようという意識があまりみられない。

 憲法9条改正が現実的な政治課題として浮上してくれば、国政選挙、国民投票によって国民一人一人がこの問題に対して意思を表明することを迫られることになる。

にもかかわらず、この問題を考えるための思考枠組は、戦争容認=9条改正か、戦争反対=9条改正反対かといった単純なものしか国民に提示されていないようにみえる。

 改憲派は、主張する憲法改正案がどのような理念に基づいているのかを明示すべきだし、護憲派アメリカとの関係をどうするのかを含め、現実的で説得力のある軍事政策案を提示できなければ、徐々にその支持を失っていくだろう。

 憲法9条を改正するかしないかを議論する前に、日本の軍事政策の基本理念、基本方針はどうあるべきかについて、国民の合意案を形成する努力が必要ではないだろうか。

 

 日本の軍事政策の基本理念に関しては、大きくは3つ、細かくみると4つの立場、考え方がある。

  1つ目は、国益になると判断すれば他国を武力攻撃、先制攻撃することも可能とすべき、とする考え方(これを「武力攻撃容認主義」と名付けておく)。

戦前の日本はこの立場をとっていたし、日本以外の多くの国が今もとっている立場でもある。

 

 2つ目は、日本が他国を不当に武力攻撃することは禁止するが、海外でおきた紛争には介入できるようにすべき、とする考え方(こちらは「海外紛争介入主義」と名付けておく)。

 なお、この立場には「他国への不当な武力攻撃の禁止」を憲法に明記すべきという考え方と、憲法にそのような禁止条項は盛り込まず、あくまでも政府の判断で不当な武力攻撃を行わないようにすればいい、という考え方がある。

(ここで「武力攻撃の禁止」ではなく、「不当な武力攻撃の禁止」と、あえて不当なという言葉を付け加えたのは、日本に対してミサイル攻撃がなされるような際に、これを阻止するために先制攻撃することは、理念的には不当な武力攻撃には該当しないと判断できるからである。もちろん、武力攻撃、先制攻撃を正当なものと不当なものに分ける考え方は、正当な武力攻撃の範囲を拡大解釈することによって、あらゆる武力攻撃が正当化されるという危険性があるけれども。)

 

 なお、海外の紛争に介入する場合、武力行使を伴って介入するのが通常の形ではある。ただし日本の場合、憲法9条の問題、国民の多くが自衛隊武力行使にアレルギー、嫌悪感をもっているという事情があるため、武力行使を伴わない形で海外の紛争に介入するという3つ目の考え方が生じてきた(この立場は「非武力行使型海外紛争介入主義」と名付けておく)。

湾岸戦争以降、現在の日本政府がとっている立場は、この3つ目のものといえる。

 現在、自衛隊の海外派遣に対する世論は賛成派と反対派がほぼ半分ずつにわかれている(派遣するケースによってどちらかが大きく上回ることはあるが)。

だが、賛成している人の中には、武力行使を伴わない形だから賛成しているという人も相当数いるだろう。

海外の紛争に武力行使を伴う形で介入するという、2つ目の立場を支持している人が現時点でどの位いるのかは不明である。

 

 また、海外の紛争に介入する場合、一定の条件を満たした場合のみ介入すべきとする立場と、条件を付けず政府の判断次第で介入してよいとする立場がある。

対米関係重視で、アメリカからの要求にはすべて応じられる態勢を整えておくべきと考えている人たちは、後者の立場をとるだろう。

一方前者の場合は、国連で容認されたものに限って介入すべきという考え方、日本独自の基準を設けるべきなどの考え方がある。

 

 最後に4つ目の考え方であるが、これは専守防衛、一国平和主義的な立場にたって海外の紛争には介入しないというもの(「専守防衛主義」「一国平和主義」といった呼称をそのまま使うこととする)。

1980年代まで日本の政府がとっていた立場でもある。

 なお、少数派の意見ではあるが、「絶対平和主義」的な考えのもと、自衛隊を廃棄し自衛権行使の権利すら放棄すべきと主張する人たちもいる。

ここでは思想のレベルではなく、実現性のある政策のレベルでこの問題を考えているので、「絶対平和主義」的な立場は4つ目の「一国平和主義」の1バリエーションとみなすこととする。

 

○原理原則主義と曖昧柔軟路線

 日本の軍事政策をめぐる最大の問題点は、アメリカの軍事的要求に応えるために済し崩しに自衛隊の行動範囲を広げてきた点にあるだろう。

1990年代になって、軍事政策の基本方針がそれまでの「一国平和主義」から「非武力行使型海外紛争介入主義」へと大きく変更された。

だが、こうした変更も、憲法の問題をうやむやにしたまま、国民の合意を形成する努力もしないままなされたといえる。

 

 「原理原則主義」的な立場にたつならば、国家または政府としての軍事政策の基本方針を明確にし、それを憲法に表記しておく。

そして基本方針を変更したい時は憲法改正手続きを行い、改正案が成立した場合のみ新しい方針へと変更すべきだろう。

 特に、1980年代まで国民の多くが「一国平和主義」の立場を支持していた点を考慮するならば、憲法自衛権を行使する軍隊を保有すること、海外の紛争には介入しないことを明記しておくべきだったという考え方もありうるだろう。

そして湾岸戦争時(以後)の自衛隊の海外派兵に関しては、「海外紛争介入主義」に基づいた憲法改正案が成立したならば合法的に派兵し、否決された時は「一国平和主義」的な立場を維持する、というやり方もあっただろう。

 

 だが、日本の憲法が改正しにくいものであること、「武力攻撃容認主義」から「絶対平和主義」まで幅広い考えがあるため国民の合意案形成が困難であること、改憲派の多くは「武力攻撃容認主義」「海外紛争介入主義」であり、専守防衛主義に基づいた憲法改正案が成立する可能性はなかったこと、政府にとっては憲法や民意よりもアメリカとの関係の方が大事だったこと、以上の点から「原理原則主義」の立場をとることは、現実的には不可能だっただろう。

 政府の立場にたつならば、基本方針を曖昧にしたまま、問題がおきた時(具体的にはアメリカから軍事的要求をつきつけられた時)、あらゆる知恵を駆使して問題の解決にあたる「曖昧柔軟路線」をとらざるをえなかったといえる。

 だが、9・11同時多発テロ後、アメリカの要求のハードルがあがったことによって、「曖昧柔軟路線」で問題に対応するやり方は限界に達してきたといえるだろう。

 自衛隊の海外での武力行使を禁止する現在の状態を維持するのか、それとも武力行使を解禁するのか。

改憲派は、9条を改正して自衛隊の海外での武力行使を合法化したいと考えているのだろうが、憲法改正ができない時はどうするつもりなのだろうか。

今まで通り解釈改憲という形で海外での武力行使を正当化しようとするのだろうか。

また、解釈改憲で海外での武力行使が正当化できない時はどうするつもりなのだろうか。

一方、自衛隊の海外での武力行使を禁止する方針を貫く場合は、アメリカとの関係をどうするのかが重要な問題となるだろう。

 

○国民の合意案の形成方法

 日本の軍事政策の基本方針について国民の合意案を形成するにはどういった方法があるだろうか。

1つは、この問題に関した国民投票を行うという方法があるだろう。

もう1つはこの問題を争点にした国政選挙を行い、国会で基本方針を決定するという方法があるだろう。

 

 また、基本方針と憲法との関係をどうするかといった問題もある。

1つの方法は、憲法をいったん脇においた上で基本方針についての合意案を形成する。

その基本方針が現行憲法下では行えないものであるならば、憲法改正の手続きを行う。

そして、憲法が改正されなかった時は、あらためて現行憲法下で可能な基本方針の合意案を形成し直す。

 もう1つの方法は、基本方針の合意案形成と憲法改正の手続きを同時に行うというもの。

現行憲法下では不可能な基本方針案を主張する人は、その基本方針に基づいた憲法改正案を国民に提示する。そして憲法が改正されたなら、その基本方針を政府の方針とする。

改正されなかった時は、現行憲法下で可能なものを政府の基本方針とする。

 

 ここで問題となるのは、国民の多数が「非武力行使型海外紛争介入主義」か「一国平和主義」を選択した時の政府の対応だろう。

民意を尊重して国民が選んだ方針を遵守するのか。

それとも強引な憲法解釈で自衛隊の海外での武力行使を既成事実化しようとするのか。

 もし後者の立場をとるのならば、軍事政策の基本方針について国民の合意案を形成すべきとする、ここでの主張自体何の意味もないものになるだろう。

それだけではなく、そもそも日本は立憲国家なのか、何のために憲法があるのかといった疑問が生じてくるだろう。

 

○個人的見解

 最後に、この問題に関しての私自身の(現時点での)考えを表明しておく。

将来、戦争そのものを違法行為とする、憲法9条の理念に基づいた国際法の制定に尽力する。

そして軍隊を、国際法を機能させるための警察組織のようなものに改変する。

このような方針をとるのであれば、「海外紛争介入主義」を1番目の選択とする。

そして2番目に「一国平和主義」を、3番目に「非武力行使型海外紛争介入主義」を選択する。

 

 1番目に「海外紛争介入主義」を選択しておきながら、なぜ2番目に「非武力行使型海外紛争介入主義」ではなく「一国平和主義」を選択するのかと疑問をもつ人もいるかもしれない。

それは、武力行使を禁じた状態で自衛隊を戦地に派兵するという行為は、自衛隊員の命を軽視した行為に他ならないからである。

戦前の戦争指導者たちは、国民の命、軍人の命をないがしろにしていたが、現在もその状況はかわっていないといえる。

政治指導者が自衛隊員の命を軽んじれば、自衛隊員も人の命を軽んじるようになるだろうから、不当な武力行使を抑制しようという意識も薄れてしまうだろう。

(ただし、浅羽通明の著作『天皇反戦・日本』(幻冬舎)によれば、自衛隊イラクに派遣された際、日本の政府、行政機関は自衛隊員に死者がでないよう用意周到な方策をとっていたそうである。「曖昧柔軟路線」がよい形で発揮されたと肯定的に評価すべきなのだろうか。)

 

 なお、日本の政府および国民が、「武力攻撃容認主義」の立場を再び選択するのであれば、私は日本の将来に対しては何も期待しない。

資源小国、エネルギー小国の日本が、軍事力によって国際社会での生き残りをはかろうとしても成功はしないだろう。

再び戦争をして第二の敗戦を迎えたとしても自業自得というものであろう。 

あなたは憲法9条改正に賛成ですか

 「あなたは憲法9条改正に賛成ですか?」といった類の言説をマスメディアでよくみかけた。

だが、よく考えてみるとこういった問いかけはおかしなものだろう。

日本の軍事政策(防衛・安全保障政策)についてなんらかの見解をもっていて、その人なりの改正案をもっている人は「賛成です。」と答えるだろう。

一方、どのような改正案が提示されてもそれを否定し、現行の条文を守るべきだと考えている人は「反対です。」と答えるだろう。

だが、そうでない多くの人は、具体的な改正案も提示されていないのに、漠然と憲法9条改正に賛成か反対かと問われても、答えようがないのが実情だろう。

改正案の方が現行の条文よりもよいと判断すれば改正に賛成、改正案よりも現行の条文の方がよいと判断すれば改正に反対というのが一般的な対応であろう。

 なぜ、こういったおかしなことがおきているかといえば、前述の問いかけが憲法9条反戦平和の思想に賛成か反対かといった思想上、イデオロギー上の問いかけになってしまっているからだろう。

改憲派憲法9条改正派)」であるか「護憲派(9条改正反対派)」であるかを表明することが一種の信仰告白、あるいは所属する党派の表明になってしまっているといえる。

日本の軍事政策の基本理念はどうあるべきかといった根本的な問題を曖昧にしたまま、「思想言論空間」において護憲か改憲かといった(ある意味不毛ともいえる)論争が繰り返されてきた状況を反映した問いかけといえるだろう。