日本の軍事政策 ― 新理想主義的立場からの一私案

 戦後の日本では、護憲(憲法9条擁護)か改憲憲法9条改正)かをめぐって論争が繰り広げられてきたが、すべての国民がどちらかの陣営に属さねばならず、中立的立場、第三の立場に立つことができないのであれば、私は護憲派の側を選ぶ。

だが日本は、憲法9条を改正するかしないか、親米か反米かといった議論をする前に、政府の軍事政策の基本方針を国民の同意を得た形で確立する必要があるだろう。

 

 政府の基本方針は次の4つの立場がある。

(1)他国を武力攻撃、先制攻撃することも可能とする

(2)他国を不当に武力攻撃はしないが、海外でおきた紛争には(一定の条件の下)武力行使を伴って介入できることとする

(3)他国を不当に武力攻撃せず、海外でおきた紛争には(一定の条件の下)武力行使を伴わずに介入することとする

(4)専守防衛、一国平和主義的な立場をとり、海外の紛争には介入しない

 

 これから述べる説は、従来の護憲派の主張を旧理想主義とみなし、新理想主義的立場から(2)の方針を正当化させるものである。

 

 旧来の護憲派の主張は、アナーキズムの思想-警察を、富や力をもつ者が他者を支配、抑圧するための装置とみなし、これの廃棄を主張する思想-と近いものがある。

いったん制定された警察組織を廃止することは困難なことであるが、もし廃止できたとしても、その後にくるのは支配や抑圧のないユートピア的な社会ではなく、力のある者が他者を私的に支配する封建的な社会にすぎないであろう。

多くの人が、自らの身を自分自身の力で守らねばならない「万人の万人に対する闘争状態」に戻るだけであろう。

 憲法9条の理念に関しても、日本だけが軍隊や交戦権を放棄しても、それは日本がかつてのように「自衛戦争だ」「解放戦争だ」といった大義名分を掲げて他国を武力攻撃することができなくなるだけである。

(ただ私は、日本はこの立場―他国を不当に武力攻撃しない立場―は守り続けるべきだとは思っている。)

 かつての大日本帝国のような国が、何らかの大義名分を掲げて他国を不当に武力攻撃する事態がおきれば、それは憲法9条の理念に反したことであり(といっても、日本の同盟国アメリカが既にそのようなことをしているが)、また他国が日本を武力攻撃した場合には、多くの国民の生命が失われることになる。

 

 日本がとるべき道は、憲法9条を放棄して無法状態といえる国際政治の現実世界に復帰することではなく、憲法9条の理念を国際政治の世界に活かす方法を模索することだろう。

 そして、その方法の1つは、戦争自体を違法行為とする憲法9条の理念に基づいた「新国際法」を制定し、軍隊を国際法を機能させるための機関へと改変することであろう。

 だが、そのような国際法や国際的な治安維持組織は、現時点では実現困難であるし、実現できるとしても何百年も先のことであろう(現在の国際法でも先制攻撃自体は禁止されているそうだが、実質的に機能していないので上記の「新国際法」とは別のものとしておく)。

 

 だから、とりあえずはそのような目標を実現させるまでの暫定的な措置として、自衛のための組織として自衛隊を位置づける。

そして自衛隊の行動規範となるものを、<国際法の理念>として制定する(この<国際法の理念>は将来制定すべき国際法の雛形とすべきものでもある)。

自衛隊の海外派兵は、<国際法の理念>に反した軍事行動が行われた際、その地域の秩序回復、治安維持を目的として行い、その行動範囲も<国際法の理念>に則ったものとする。

<国際法の理念>に「他国への不当な武力攻撃を禁止する」条項をいれておけば、日本政府がそれを遵守する限り、日本から戦争を仕掛ける行為は防止できるだろう。

 アメリカとの関係については、アメリカの軍事行動が<国際法の理念>に則っている場合には、これに協力することも可能とする。

(ただし、法的に可能とするだけの話であり、実際に協力するかは政府の判断によって決定すべきである。)

一方、アメリカの軍事行動が<国際法の理念>に反している場合には、中立的な立場をとってこれには協力しない。

アメリカに対しては、日本が遵守すべき<国際法の理念>を明示しておき、これに反した要求には応じられないことを事前に説明しておくべきだろう。

 また、日本の掲げる<国際法の理念>に共鳴する国があれば、その国と協力関係を結び、将来の「国際連邦」の礎とすべきだろう。

(ここでは、自衛隊に2つの機能-自衛行為、海外での国際紛争介入行為-があることとしたが、日本の保有する軍事力を、自衛隊と国連軍の一組織の2つにわけるという方法もあるだろう。

経済的効率を考えれば前者の方が望ましいし、現時点では国連軍自体が存在していないので国連軍の一組織をあらたに制定する意味がないが。)

 

 ただ、これまで述べてきたことは非現実的であるだけでなく、理論的、思想的にも矛盾や問題点を抱えているだろう。

アメリカや、アメリカが支援する国が<国際法の理念>に反した行為をしても黙認するのに、アメリカと敵対関係にある国が<国際法の理念>に反したことをした時には軍事介入するというのは、不公平、不公正だろう。

 また、将来戦争そのものを違法とする国際法が制定されたとしても、同様の不公平、不平等が生じるだろう。

近代市民社会における法や警察が、マルクス主義者が批判したように、治安や秩序を維持するという名目で富や力をもつ人たちの利益を優先的に守り、社会的、経済的弱者を抑圧する機能を果たしている側面は否定できないだろう。

 大国・先進国と中小国・途上国の間に経済をはじめ様々な不公平、不平等がある状況で、「新国際法」「国際的な治安維持組織」が制定されても、それらが大国の利益を擁護し、中小国を抑圧する機能をもたらすことになるだろう(ただし、それらが大国の不当な軍事行動を規制する役割も果たしはするだろうが)。

 

 また、ここで述べた案が実際に採用されたとしても、今度は<国際法の理念>の内容をめぐって、かつての護憲派改憲派のような論争が繰り返されるかもしれない。

<国際法の理念>の内容とその解釈次第では、これが不当な戦争や軍事行動を正当化させるためのレトリックとして利用されるだろう。

一方、<国際法の理念>の内容を厳密なものにすれば、日本は海外での紛争には一切介入できなくなるだろう。

 だが、1980年代までのように、海外の紛争には介入しないという方針に戻るのでないのなら、どのような状況、条件なら自衛隊を海外に派兵できるのか、あらかじめ明確な基準を定めておくべきだろう。

 

 最後に、私自身は憲法9条の理念を擁護する立場からこうした案を提示したが、この案は護憲派の人たちからは、自衛隊の海外での武力行使を容認するものとして批判されるだろう。

一方、改憲派の人たちは、この案を机上の空論として否定するのでなければ、憲法9条改正を正当化するレトリックとして利用するだけであろう。

そして、憲法9条が改正されれば、結局は日本が他国を武力攻撃することも容認されることになってしまうだろう。